小池光『梨の花』(現代短歌社・2019年)
小池光の最新歌集『梨の花』に、前回取り上げた田村よしてるを偲んだ歌があった。なお歌集での表記は違う字であったが、誤植と思われるので自分の判断で修正させていただいたことをお断り申し上げる。
「田村善昭」は田村の本名で、同じ高校で同僚教師だった小池からすれば本名の方が馴染みが深いからこの名前で偲んでいることは疑いない。四句までの表現は田村の死の経緯と関わっている。田村は2015年12月23日に浦和の公民館で開催されていた短歌人埼玉歌会の席上で倒れ、救急搬送された。病院にも付き添った野村裕心の、歌集巻末の文章によれば病院に着いたときには意識もはっきりしていたが病状が急速に悪化し5日後の12月28日に亡くなった。
「さつきまで目の前に居りしが」には、あのとき歌会に一緒にいたのにという感慨に加え、30年以上の人間関係の蓄積が2人の間にあったことをも包括している。「忽然と消えてなくなりし」も単に田村の存在が忽然と消えてしまったことだけでなく、人間関係がある日突然途切れてしまったことへの無念さも滲む。
掲出歌は歌集中ほどの「追悼田村」という一連6首の1首目で、他に
四十年のつきあひにして若き日より老いにいたるまでわれら遊びき
『思川の岸辺』の売れ行きよいことをわれにまさりてよろこびくれし
麻雀をするはずだつた正月五日きみが葬(ほふ)りの骨ひろひをり
銅鑼牌(どらはい)の「中(チユン)」切りたれば一呼吸ありてしづかに「あたり」ときみは
学校の同僚として短歌の友としていつの日もわれを守りくれしよ
という歌が見られる。3首目は『いとしきもの』での野村裕心の記載に拠れば、年明けの1月5日に田村、小池、野村とやはり『いとしきもの』で「田村善昭先生追悼記」を執筆した松丸武史の4人で恒例の新年麻雀をする予定だったことを踏まえたものだ。その5日におそらく小池だけでなく田村以外のメンバー全員で田村のお骨を拾ったのである。淡々と述べているが、背後に途方もないかなしみと無念さが漂っている。
5首目も田村と小池を二人とも知っている者からすればなるほどと思える歌だ。「守る」はもちろんボディーガード的な意味合いではなく心理的な信頼感だが、語弊を恐れずに言うなら、小池光を水戸黄門に譬えれば田村と野村は助さんと格さんのような印象がたしかに自分にはあった。
どの歌からも、田村よしてる(「短歌人」の同人として田村を知っている自分はあえてこの表記で通す)を知っている人は田村の人物像がありありと浮かぶだろうが、知らなくても小池の同僚でかつ同じ結社の友人像を思い浮かべれば充分に観賞できるし、それができる一連である。小池の技術力に拠るのは言うまでもないが、それだけ田村が小池にとって大きな存在だったということだ。そしてあえて短歌の鑑賞から脱線すれば、田村と小池の双方を知っている人間はみな深く頷くところであろう。