前田康子/縁側で祖母がすることぼんやりと見ていないようで見ていたんだ

前田康子第三歌集『色水』(2006・青磁社)


 

屋上にさぼる私は風を吸う吸い足りなさを残し戻れり 『ねむそうな木』

 

屋上にさぼりに行ったところで、心の底からさぼりきれるものでもなくて、どこかでは切り上げて戻ることになる。この歌ではそういう「さぼる」という行動に付随する気分的なものが捉えられている。「屋上にさぼる私は風を吸う」という現在形から詠い出し、「吸い足りなさを残し戻れり」という完了形で終わる。というのは、近代短歌的な時制の枠組みを軋ませていて、上句と下句の間に圧縮された隙間が生まれている。そのような「圧縮された隙間」が「吸い足りなさ」そのものを感じさせ、「戻れり」という文語にはなにかしこりのようなものが出てくる。

 

子の目玉なめて目のゴミ取り出せり 声のような風が吹く午後 『ねむそうな木』

 

この歌では「取り出せり」と上句では文語が遣われているから、下句も「声のようなる」と文語にすれば韻律は整うし、歌の構図も落ち着く。けれども、「声のような」という口語の6音が、やはり歌の言語空間に隙間を生む。悲鳴のような、それでいて湿度があって、上句の舌の動きともどこかで連動するような、つまり構図が一旦壊されたことによって、自身の行動と外界とがもっと感覚的なところで融合しはじめるようなところがある。

 

産みし午後、文字という文字釘のごと飛び出て見える紙のおもてに 『キンノエノコロ』

 

出産後の感覚としてとてもリアルな歌で、ずっと印象に残っている。私自身が出産後に同じ感覚になったわけでもないし、出産を経験するよりずっと以前から、あーなるほどこういう感覚になるんだなあ、ととても思わせるものがあった。そして、また、こういうところを詠いとどめた歌は他にあまりないのではないだろうか。

 

文字という文字釘のごと飛び出て見える紙のおもてに」という描写がなにより、その特異な身体的疲労の果ての視覚に起きた幻覚的なものを感じさせているわけだけども、そいういう奇妙な感覚を下支えしているのがやはり、「産みし午後」と文語ではじまり「飛び出て見える」と口語になる。そういうちぐはぐな文体であると思うのだ。

 

縁側で祖母がすることぼんやりと見ていないようで見ていたんだ 『色水』

 

今回、改めて前田康子の歌集を読み直していて立ち止まった歌である。子供の頃の記憶であるだろう。縁側でおばあちゃんがなにかやっているのをぼんやりと見ていないようで見ていた、という感覚は子供の感じとしてとてもわかる。そういう記憶の在り方が、ふいに「見ていたんだ」と今現在の思考に書き起こされる。ここには記憶を、それもやはり「ぼんやりと見ているようで見ていない」ような感覚でたどりながら、はっと「見ていたんだ」という現在の気づきに立ち返る、そういう文体の動きがあって、そのようなひとつの衝撃をともなって、記憶を一気に浮上させるようなところがある。なによりも「見ていないようで」までのゆっくりした8音のリズムに対しての「見ていたんだ」という6音の欠落感が、文体の位相のずれを物語っている。

 

感覚的、と一般にいわれるものをつきつめて考えるとよくわからなくなってくるのだけど、たとえば、「かなしい」が感情に分類されるのに対して「さびしい」は感覚的なのかなと思う。「さびしい」には空間性があって、モノがあるよりはない場所を思わせるし、心でいえば隙間のようなところである。そのような実態ではないところの隙間のようなものが文体の軋みのなかに書き起こされているのが前田康子の歌のように思うのだ。

 

そしてそれは、近代短歌的な歌のベースがあることで、そこに生じる軋みとして顕在化されているのではないだろうか。私は以前、東直子の歌がその口語性によって感覚や気分を引き連れた予感の現場を描き出すことを可能にした、というようなことを書いたけれど、前田康子の歌というのは、そのもう少し手前の場所、つまり〈わたし〉を起点に置くことで定まる時制や構図、そうした近代短歌的な枠組みを「感覚」が軋ませ始める。そのような「現場」として見ているのである。それはとても危ういラインに歌を立たせてもいて、「「文語」の呪縛というのは結構強くて、そういう構造に対して無自覚に自由なことをやろうとすれば、多くの場合それはめちゃくちゃな歌、文法間違いの歌、みたいになってしまう(「日々のクオリア」8/2)」とも書いたけれど、前田康子の歌もまた、文語をベースに置きながら感覚を優先しようとするときの文法的な問題をどうしても孕んでしまっているわけだが、そういうラインに立つことではじめて、文語が要請する構図のなかでは捉え難かった「感覚」を感覚のままに「隙間」や「欠陥」として歌に定着し得ているのではないか。

 

今日の話とは関係ないんだけど、最後にこの歌を紹介したい。

 

京の夜に重なり合える鐘の音おおつごもりという感じして 『色水』

 

これも、昨夜読んでいてはじめて立ち止まった歌で、京都に鳴り響く除夜の鐘ってすさまじいだろうなあと思った。あの盆地のなかのたくさんのお寺の鐘が一斉に鳴るのだ。この「おおつごもりという感じして」は未知だなあと思った。