東直子/ひやしんす条約交わししゃがむ野辺あかむらさきの空になるまで

東直子第一歌集『春原さんのリコーダー』(1996年・本阿弥書店)


 

前回、私は歌のダイアローグな特性が東直子の歌では「現代の口語」によってひとつの形態としてとり出されたのではないか、というようなことを書きたかったんだけども、「口語」と一口に言っても、殊に現代においては「口語」の中にさらに文語的なものと口語的なものが含まれていてそれは語順や歌のモチーフとの微妙な関係の上に成り立ってもいる。東の歌でも、その要素は一首のなかに混在していることは多い。

 

ひやしんす条約交わししゃがむ野辺あかむらさきの空になるまで

 

たとえばこの歌はどうだろうかと考えてみるとなかなか難しいのだ。表面的にはもちろん「口語」である。「しゃがむ」なんていうのは文語ではないからだ。けれども日常においてふだん遣っているリアルな「口語」という意味では、「野辺」というやや古めかしい名詞、「しゃがむ野辺」という語順は文語文体のテイストを持っているし、「空になるまで」というような言い方は文語的である。何よりこの歌での「口語」は日常のリアルを支えるという役割を担わされているわけではない。この歌は「ひやしんす条約」という詩的な発想&言葉の発明の上に展開されているのであって、ここに作り出されているのは日常のリアルではなくて、この歌のためだけにある世界の質感であり、その世界の先にある願いとして「あかむらさきの空になるまで」というイメージが置かれているのである。

 

そして、でも、そういう世界をナチュラルに自由に作り出すことができているのは、やはり表面的な意味での「口語」であることも大きな要因なような気がする。それは、文語が予め持っている文法的な規則や、そこに付随する時制などの仕組みから歌の世界を解放することができるからだ。

 

近代以降の短歌は、基本的には「近代に開発された文語」によって詠われてきた。この「文語」は「私の文学」、「私のモノローグ」を確立するために開発されたもので、「私」を主語に置くことで安定する時制のシステムを持っている。そのような構造が「短歌定型」を「私の磁場」として機能させてきたのがいわゆる「近代短歌」ということになるのではないだろうか(もちろんたくさん例外はあると思うんだけど)。そして、こうした強固な構造に対するアクションとしてたとえば塚本邦雄のような歌が有効にもなるわけだけど、ともかくその「文語」の呪縛というのは結構強くて、そういう構造に対して無自覚に自由なことをやろうとすれば、多くの場合それはめちゃくちゃな歌、文法間違いの歌、みたいになってしまう。一方で「口語」は、そのような「文語」と比べれば最初からかなり自由度が高いのだと思う。「口語」はそれ自体が生きて遣われている言葉としての現場性を持っている。人と人との間で刻々と変化し、あるいは生み出される有機的で流動的な言語でもあるからだ。もちろんそれは「口語」の一側面に過ぎないし、過去の様々な口語短歌についてはまた別の話にもなるんだと思うんだけども、とりあえず東の歌においては、そのような「口語」を使用することが「ナチュラル」に「近代短歌」の拘束をほどくことを可能にしているように思うのだ。

 

そして、だからこそ、この歌の世界では「ひやしんす条約」なるものがどんな相手と結ばれたものなのか、それはどのような内容を持つものなのか、なんていう現実的な話は問題にならない。あるいはそれが現実に対する暗喩である必要もない。「ひやしんす条約」という言葉の質感、野辺にしゃがむことのぽつんとした感覚、そこに見上げる空が「あかむらさき」になるまでの時間、つまり日が暮れるまでの限定された時間というものがここに子供というものの世界を映しだす。思い出とか記憶とかそういう時制のなかに置かれることで描き出される「幼少期」みたいなものではなくて、「子供の世界」というものが自由になった定型の上に広がっているのである。