東直子/おねがいねって渡されているこの鍵をわたしは失くしてしまう気がする

東直子第一歌集『春原さんのリコーダー』(1996年・本阿弥書店)


 

前回の歌、

 

遠くから来る自転車をさがしてた 春の陽、瞳、まぶしい、どなた

 

は、『回転ドアは、順番に』 に置かれるときには、「ぼく」という対象を得ることで輪郭を明らかにする。あるいはたとえばこの歌が一首だけ教室の机に彫られていたらどうだろう。ある日、そこにたまたま座った私がこの歌を発見する。たとえそれがずいぶん昔に彫られたもののようであったとしても、そのときそれを読んだ私に、この歌の「どなた」は向けられているように感じられるのではないだろうか。歌は読者の私とその場を共有し、そこに新しい命を持つのだ。

 

そして、私はそのような歌の在り方が、和歌的であり、そこに脈打つ「流動性」、外部に対する「有機的な働き」というものをとりあえず「ダイアローグ」と言っているわけだけど、そしてそういう意味で「口語的」だと感じてもいるんだけど、たぶんそういう歌の在り方自体は、近代以降の「モノローグな歌」とともに曖昧に現代まで共存してきたはずで、けれども、東の歌が改めてその通路を開いたように見えるのには、いくつかの理由があるように思っている。一つには東の歌が実人生的なものを背負っていないこと。それによって、実人生的なものがこれまで担保してきた「私の文学」的なモノローグ性から解放されている。もう一つにはそういう「私の文学」の下支えともなってきた歌に客観性を齎すところの「文語」に対置される、主観の発露としての「口語」の使用ということがあるのではないか。もちろん他にも東直子個人の作歌性といったようないろんな要素が関わっているはずだけど、ともかくこの二つが重なることで東の歌はそこにあるダイアローグ性の質感そのものが抽出され一首を形成しているように見えるのではないだろうか。

 

おねがいねって渡されているこの鍵をわたしは失くしてしまう気がする

 

この歌は、モノローグ的でもある。独白であり、今でいうつぶやきなんだけれど、そのつぶやき自体が現場性を伴ってここに切り出されたときに、ここにある「なくしてしまう気がする」という不安は読者と共有される気がする。

 

現場性が伴っているというのはどういうことかというと、まずこの歌は「おねがいねって」ではじまるのだ。目の前で言われるそのときの現場性がここで発生する。そして相手にそう言われることではじめて生じる心理がある。「おねがいね」に含まれる相手からの信頼や期待を感じ取りそれに応えなければという心理が、緊張を生んで、いま「渡されているこの鍵」を不確かな予感の象徴のように眺めることになる。「この鍵」は「失くしてしまう気がする」という「予感という現場」のなかに置かれることになるのだ。

 

ちゃんと持ってさえいれば、仕舞っておきさえすれば失くすことなんてないし、ふだん何も考えずに過ごしているときであれば、そんな不安に陥ることはないんだけども「おねがいね」という相手の言葉によって、その期待に応えられそうもない「自分」というものがここに生じてしまうのである。そして実際にそんなとき人は本当に鍵を失くしてしまったりもするんだけど、つまりここにいる「わたし」というものは外部からの働きかけによって内部に齎された極めて現象的な「わたし」であり、そういう「わたし」そのものが「現場」であるのだ。

 

そして、そのような「わたしの現場」は「文語文体」によって客観視されるのではなく、口語のつぶやきとして主観そのものが切り出されていることでここに現出しているのではないだろうか。そのような直接性がダイアローグであると思うのだ。そしてだから読者の私自身が、体験的に歌の「わたしの現場」に立ち合うことになる。「わたしの現場」が「内的」に共有されるのである。

 

そして、この歌は『春原さんのリコーダー』の冒頭歌でもあるのだ。「失くしてしまう気がする」という予感そのものが歌集の冒頭に置かれることで、歌集という場における有機的な働きがここでもダイアローグ性を伴って発動しているように思う。