東直子/遠くから来る自転車をさがしてた 春の陽、瞳、まぶしい、どなた

穂村弘×東直子『回転ドアは、順番に』(2003年・全日出版/2007年・ちくま文庫)

 

今日の一首は穂村弘との共著『回転ドアは、順番に』から引いてきたのだけど、この歌は第二歌集『青卵』にも収録されているので先にそちらの並びから見てみたい。

 

病院の忘れ物の箱の中あなたの白いうつろな指紋

神様の選びし少女ほのぼのと春のひかりに鞦韆(しゅうせん)ゆらす

遠くから来る自転車をさがしてた 春の陽、瞳、まぶしい、どなた

腹話術の人形ふいにはずされたようなあなたの笑顔のために

ぼくたちは黙って水を見つめてた さよなら月をめざした鼠

 

『青卵』から今日の一首の前後二首を引いてきた。一首目では、病院の忘れ物箱のそこに残された「あなたの指紋」というものが詠われる。この「あなた」は「わたし」とどのような関係の「あなた」かわからない作りになっていて、「うつろな」という修飾が唯一、そこに心理的なものを垣間見せる。二首目では、「神様の選びし少女」がヒロインとなることで、ここでは一首単独の物語性が付与される。四首目では、おそらく「あなた」に対する比喩として「腹話術の人形ふいにはずされた」と詠われている。なにか悲しそうな「あなた」がいて、そして「あなたの笑顔のために」という願いの在り方が歌詞のような普遍性を持つ。五首目では主語が「ぼくたち」となり、「月をめざした鼠」という童話的な素材が組み込まれる。

ここには様々な視点やシチュエーション、物語的な要素が混在しているのだ。そしてそこに置かれることによって、

 

遠くから来る自転車をさがしてた 春の陽、瞳、まぶしい、どなた

 

この歌の「どなた」が生きてこないように思うのである。「どなた」の対象のほうが乱反射することで歌の輪郭が曖昧になってしまうのだ。

 

一方、『回転ドアは、順番に』の冒頭歌としてこの歌が置かれたとき、歌は、穂村弘が詠うところの「ぼく」という対象を得ることで、東の歌の「ダイアローグ」な特性が際やかに見えてくるのである。「遠くから来る自転車をさがしてた」というまぶしい予感の中から、「どなた」というまだ正体のわからないものへの問いかけ、その正体をつかもうとする問いかけが、ここにただ一人の対象をいま、まさにとらえようとしているのだ。「春の陽、瞳、まぶしい…」という散乱する光のなかからただ一人への道筋がまっすぐに開かれているのである。

 

ああ、そうだったなあと私は思う。「和歌」とは、もともとこういうものだったのではないか。「和歌」は、相聞歌、贈答歌といったコミュニケーションでもあったのだ。そこでは「一般の読者」というようなものは当然なくて、差し出す相手がいた。それによって、31音という詩形がどうしても抱えざるを得ない欠落を補い合うことができた。つまり、そうした対象を持つことで歌は輪郭を明らかにもしたのである。

 

それは、構築された完成体、というような作品の在り方とはだいぶ違って、場を共有することのとても不確かな要素を抱え込むことにもなる。そういう在り方は流動的であり、だからこそ有機的な働きを持つものなのでもないだろうか。