生沼義朗


竹山広/一分の黙禱はまこと一分かよしなきことを深くうたがふ

竹山広『射禱』(ながらみ書房/雁書館・2001年)

※歌集『射禱』は『竹山広全歌集』に新刊歌集として含まれている。


 

8月6日の広島原爆忌と8月9日の長崎原爆忌、それぞれの平和祈念式典の様子を今年もニュースで見た。そのたびに思い出すのが今日の掲出歌である。竹山広には

 

 

一分ときめてぬか俯す黙禱の「終り」といへばみな終るなり  『千日千夜』

 

 

というよく知られた歌もあってこの歌の方が発表が先なので、こちらから読んでゆくことにする。

 

黙祷の具体的背景ははっきり描かれていないが、「一分ときめてぬか俯す」とあるので、やはり何らかの式典を想起する読者が多いだろう。一応平和記念式典と仮定して読み進める。黙祷の開始時刻は原子爆弾が投下された時刻だからわかるが、考えてみれば黙祷の時間は本来個々人によって異なり得る。だが式典という公の場であるゆえに、進行上の理由などの諸事情で「一分」と時間が区切られ、参列者はその1分間のなかでおのおのの祈りを捧げる。そして黙祷時間の「終り」を告げられれば、「みな」一斉に黙祷を終えて顔を上げる。そして多くの人が特に異を唱えることもなく、一連の動作を行う。淡々と述べているようで、慣習への疑義が深くしずめられている。

 

掲出歌も疑義という点でまず共通する。1分間の黙祷の間に何を思っているかは人によって違うだろう。必死に祈る人もいれば、無心の人もいるだろう。早く終わらないか願っているという不届き者もいないとは限らない。人によっては短くもあり長くもある1分間を、竹山はこの1分間は本当に1分間なのかと考える。前の歌で述べた慣習への疑義だけでなく、時間という概念そのものをも疑おうとする思考の触手が静かに伸びている。「一分の黙禱はまこと一分か」と「うたが」っているのは式典の場なのか後日あらためて考えたかは歌のニュアンスを相当揺さぶるが、「深くうたがふ」には継続して思考を深めている手触りが感じられるので、後者と読んだ。

 

「よしなきこと」は辞書的には①理由・根拠がない。②方法・手段がない。③つまらない。とりとめがない。④関係がない。縁がない。の四つの意味があるが、この場合は③と①の両方に意味がおよんでいる。しかし竹山が「深くうたがふ」のは単に常識を疑ったり認識を問い直したりするだけでなく、民衆がある指示に無自覚無批判に従う危険性に警鐘を鳴らしている。もちろんそれは太平洋戦争から広島・長崎への原爆投下に至るまでの反省および竹山自身が長崎での被爆者である自覚と責任に基づくものだ。「深くうたがふ」という、読者に強い印象をあたえる措辞が結句に置かれているのはそのためである。

 

さて、日々のクオリアのアーカイブをざっと調べてみたら、竹山広の歌は今までに12回取り上げられていた。かく言う自分も竹山の歌について述べるのは2度目である。今回の掲出歌は意外にも誰もメインでは取り上げていなかったが、2010年4月27日のこの欄で大松達知が〈一分ときめてぬか俯す黙禱の「終り」といへばみな終るなり〉を取り上げ、その中で掲出歌にも触れている。

 

竹山の歌がなぜそれだけ取り上げられるのか。平易な表現の奥に含まれている鋭い思索と問いが読者を突き動かすからだろう。そしてそれが散発的でなくかなりの歌において見られるところに竹山の凄みがある。