ひとりぼろタクシーのなかで、へし折れたやうな街の後ずさるのを感じた

(前田夕暮『水源地帯』白日社:1932年)

これを2020年の歌として読んでもなんの違和感もないことに驚いてしまう。
いきなり自分の乗っているタクシーを〈ぼろタクシー〉とあけすけに罵倒している。たまたまエンジンの調子でも悪く振動が激しかったのか。とにかく、得体のしれないものに対峙する憎悪あるいは怒りがみえてくる。その正体不明の負のエネルギーのなかで街はへし折られ、後ずさりしてゆく。結句に〈感じた〉と言い収めているように、内面の闇に湧きおこる強い葛藤が突出している。

〈へし折れたやうな街の後ずさる〉というフレーズには、すべてが混沌としていながら、都市全体がやみくもに破滅に向かっている危機感がある。社会の危機がそのまま内面に引き込まれている。

この歌が詠まれたのは昭和7年。上海事変が勃発し、ドイツではナチスが台頭。世界は暗澹としている。現代的という意味ではモダニズム短歌そのものであり、ボードレールを思わせるような屈折に満ちた都会の憂愁を言葉に刻んでいる。

こうしてみると一首がすべて、作者の心象の喩として成立している。一見、自虐的にみせて、滑稽な面も目に付くが、その裏側には歯噛みするような焦燥感や、現代性に肉薄しようとする表現への熱い高揚感がこの歌を奮い立たせている。

前田夕暮といえば「向日葵は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちひささよ」という美しい絵画のような歌がつい口をついて出てくるが、そこから歌風は大きく変わり、掲出した荒々しい口語自由律の歌までの約20年の距離の大きさを思う。定型の美しさを棄てて、口語自由律の荒野に飛び込んでくるまで、このすぐれて理知的な歌人はおそらく西洋の象徴主義の現代詩や、その散文化の潮流をながく彷徨し、試行錯誤を重ねたに違いない。

その果ての可能性を秘めた新たな歌。これが歌かというと、本人が歌だというから、ということしか根拠がない。そんなぎりぎりの営為のなかで現代的な情感を刻み付けたいという表現への意志がひりひりと燃えている。