雪を拂ひ 乗りてはおり行く人を見て、つくづくと居り。汽車のひと日を

           釈迢空「遠やまひこ」 1948年

この歌は「出羽」というタイトルがつけられて3首あるうちの1首目。年譜によると迢空が山形地方に旅行したのは昭和6年の12月。一人旅であったらしい。歌が詠まれたのは昭和10年以降とあるので、そのときの記憶を回想的に詠んだのであろうか。1首を流れるのどかな旅の情感にふと引き込まれた。

釈迢空というと「黒衣の旅人」とうネーミングもあることから、闇のイメージがつきまとい、旅もさぞかし難儀な歩行の旅であったろうと思い込んでいたが、この歌ではちゃっかり汽車に乗っている。そこで少しほっとした。当然のことであるが、釈迢空は汽車にも車にも乗る近代人だったということ。そしてこの歌には都会人らしい明るさや軽やかさがあり印象的だ。

この日、出羽地方は朝から雪が降り続いているらしい。汽車には、地元の人たちが駅ごとに乗り降りしている。人々はそれぞれに着物についた雪を払ってから汽車に乗り込んでくる。その人たちの姿を、あるいはその背景にある雪国の生活を、旅の途中である<わたし>は懐かしむような暖かな眼差しで見ている。

 

さて、この歌が深い印象を残すのは、見知らぬ土地の人々に思いを寄せ、ここに居合せたことへの静かな感動が、読む方の気持ちを誘うのかもしれない。ここにいる<わたし>は汽車に乗り一日中動いている。そして<乗りてはおり行く人>たちもまた同じ汽車に乗り降りしながら動いている。

つまり、私は旅人であるけれど、ここに居合せた人々もまたわたしと同じように旅人であるということだ。おたがいに、この世を旅しながら言葉もかわさずにすれ違ってゆく。偶然に編まれた運命によって生かされている人間の一瞬を<わたし>はつくづくと見ている気がする。そのはかなさを愛おしむような視線が歌のほのかな詩情を立ち上げているのかもしれない。

釈迢空には、この歌のような日常的な世界と、非日常の世界の二つがあると言われている。あるいは意識と無意識、夜と昼、喧騒と静寂、永遠と滅亡、ふたつの世界を往還しながら深い作品世界があらわれる。この不可思議な旅人をこれからも追ってみたい。