生と死のうづうづまきてをりにけむ丸縁眼鏡の志功のなかに

花鳥かとり もも 『逃げる!』 短歌研究社 2021年

 

志功とは、版画家の棟方志功のこと。強度の近視(60歳頃には左目を完全に失明していたと言われる)のため、分厚いレンズの丸縁眼鏡をかけて、自分より大きな板に這いつくばうようにして彫刻刀をふるっていた。

その志功のなかに、「生と死のうづうづまきてをりにけむ」と作者は想像する。生と死の渦が渦巻いていただろう、というのである。

「けむ」は過去推量の助動詞。「うづうづまきて」というひらがな表記は、やりたいことを抑えて我慢している落ち着かないさまをいう「うずうず」とも重なってくる。ぐるぐると抑えきれないほどのエネルギーが、身体の内に渦巻いている。創作に向かう志功の情熱。そこでは、生も死もあるものか。ただひたすら抑えきれないものの赴くままに彫るのである。

板と志功との真剣勝負。全てを賭けて、人間がなし得るかぎりのことをする。これで死んでもいい、というくらいの凄まじい生きの姿である。一瞬一瞬、実に濃い時間を生きていたことだろう。

 

小説を書くとは蛇になることぞ 川端康成の眼をおもふ

 

こちらは、川端康成。「眼」は「まなこ」と読む。

映像や写真で見る川端康成のぎょろっとした眼。ぎょろっとしているだけでなく、妙にぬれぬれとしてもいたところは、蛇の目を思わせる。対象を執拗に見つづけ、いつか必ず小説に書く。

川端康成の眼を思うと、まさに「小説を書くとは蛇になること」だと納得させられる。

表現者の執念というか、業とでも言うのか。並の人間にはない、凄まじいところは、やはり魅力である。そういうものを持っている人を見るのは、人間の深淵を覗くようでもあり、怖いと思いながらもやはりじっと見つめずにはいられない。

で、見つめた後にどうなるか。こちらの凡庸さが揺さぶられる。生きる姿勢を問われることにもなる。そういう刺激はときどき欲しい。

 

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