なにとなく、/案外に多き気もせらる、/自分と同じこと思ふ人。

石川啄木『悲しき玩具』

 

なにとなく、

案外に多き気もせらる、

自分と同じこと思ふ人。

 

(タイトルのところだと行替えが上手くできないので、三行書きを上にあげておきます。)
啄木歌集をぱらぱら読んでいて目についた歌。
没後すぐの明治45年に刊行された『悲しき玩具』に収録されています。

内容的にはそのままなのかなと思うのですが、多行書きが生きてる感じがします。
一行書きにするとたぶん、すとんとし過ぎる。
「なんとなく」で読点を入れて行替え、
「案外に多き気もせらる」でまた読点で行替え、
何を言いたいのかと気を引きつつ、新情報も新しい名詞も特に出てこないまま、けっこう意味ない感じで歌が進んでいく。
でもここのところの語り口みたいなものに、なんとなく生気とか魅力がある。
特に何首も続けて読んでいくと、かわいげがあったり人なつこいような感じもあったりして、だんだんその人というかキャラが好きになっていく。

「気もせらる」の「らる」は助動詞で自発の意味かと思います。
意味を他サイトからコピペすると、「自然に感覚が湧いてきたり、自分の意志とは関係なくひとりでに動作が実現する様子を表わす」。
自然にそんな気がしてきた、ということですよね。

「自分と同じこと思ふ人。」
自分と同じことを思う人は案外多いのかもしれない。
わりと漠然とした言い方をしている。いちおう解釈的なことをすれば、
普段自分は自分独特のものの考え方をしているつもりである。そういう自負もあるし、そのことにアイデンティティを感じていたりする。けれど、「案外」そうでもないのかもしれない。自分と同じようなことを、多くの他の人たちも考えているのかもしれない。なんか急にそんな気がしてきた。
こんな感じかと思います。

こういうこと考えることあるなっていうあるあるっぽくもありますが、わたしは術中にはまっているのか、けっこう深いこと言ってるなという気もします。一種の独我論のメタ認知というか、他人が主体としてものを考えているということを、そして普段自分はそれを忘れているということを、本当に実感するのって、難しいことだと思うんですよね。

そういう独我論的で自分中心の内容・過程を、むしろ人好きがするようなプレゼンテーションとして出している。これが啄木クオリティ。

ちょっと話が進みすぎたかもしれませんが、この歌だと、「自分の意見だと思ってるものって案外よくあるものだよ」みたいにまとめてしまうとそれ自体凡庸になってしまう気がします。

もう一首『悲しき玩具』から。

 

名はなんと言ひけむ。

せい鈴木すずきなりき。

今はどうして何処どこにゐるらむ。

 

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