浴槽は海に繋がっていません だけどいちばん夜明けに近い

馬場めぐみ「見つけだしたい」『短歌研究』,2011.09

 

第54回短歌研究新人賞受賞作品から。

 

「浴槽」と「海」とを「繋がって」いるものとして、まっさきに思い浮かぶのは水の存在でしょうか、

視覚的にも支えられる安易なその想像を、語り手は「いません」と、きっぱりと否定します。

〈私〉はそこに居ながら、〈私〉はそこを見ていない。

 

一字空けののちの下の句、「だけどいちばん夜明けに近い」。

このとき、上の句で否定された水のイメージは、「けれど」という力強い逆説と陽光に照らされる煌めきを伴って、わたしたちのまなうらに飛び込んでくる。

 

この歌を含む連作「見つけだしたい」に収められている作品には、「ふれないで」、「さわらない」、「呼ばれなくとも」と、何かを否定、または拒否する言葉が多く用いられていることがわかります。

 

生きづらいでしょ、って名前の紙風船が潰れるまでは落さぬように

さっぱりとしたから二度とふれないで 洗剤薫るぬいぐるみの猫

傷つけてしまいそうならさわらない 正しさを裏返していく夕焼け

駆け抜けるひとのライバルだとはもう呼ばれなくとも光はあって

 

ふれないこと、さわらないこと、呼ばないことは、〈生〉の否定、または拒否であるよう。

 

私見では、斎藤茂吉の作品を頂点とする、このような近代短歌的なモードを支えてきたものは「生の一回性」の原理だと思う。誰もが他人とは交換できない〈私〉の生を、ただ一回きりのものとして引き受けてそれを全うする。一人称の詩型である短歌の言葉がその原理に殉じるとき、五七五七七の定型は生の実感を盛り込むための器として機能することになる。

穂村弘『短歌の友人』河出書房新社,2007.12

 

ここでは寧ろ、〈生の実感〉よりも〈死の実感〉を強く抱くゆえ、その一回性のきらめきを掬い取ろうとするまぶしい姿勢が光るようです。

優しくやわらかく、けれどりんと力強い、ふしぎな逆説の一首です。

 

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