視るちから姉妹のやうに異なれる右目左目とぢてねむれり

鈴木加成太『うすがみの銀河』(角川文化振興財団、2022年)

 

ひとにはふたつのまなこがあって、ねむるとき、まぶたをおろす。そのふたつの眼の、ここでは視力のちがいから、右と左とをへだてて意識している。右0.3、左1.2とか。

 

そのちがいをとらえて「姉妹のやうに」が絶妙だ。双子ほどは同じでなく(双子にも姉妹はあるが)、また兄妹のようには異ならず、うっすらとした相似はありながら、しかし、ほとんど同じかと言われると、そこにはまるでとどかない。

 

異なりながら、しかしそれとなく手をとりあう姉妹のすがたが浮かんでくる。

 

わたしというひとつ人体のなかにあって、右と左とにひとつずつある眼。それはあるいは、ひとつ家に暮らす姉と妹のようでもある。歳月とともに、異なる影響がおよび、積み重なり、おのずからなる差異をかかえるようになる。いや、そもそも姉と妹はちがうのだけれど。

 

もうひとつ言えば、「視力」と「視るちから」はいくらもちがう。表面的な認識にとどまらず、そのことを通じて、その奥にあるものを見通すちから、とでも言ったらよいだろうか。見えること見えないことのちがいからくる、考えられること、考えられないことのちがいをおもう。あるいはそこにある偏りのことも。

 

たわむれに、右の目だけをふさいでみる。あるいは左の目だけをふさいでみる。ふだん両の目をつかいながら、そのそれぞれはいかにも異なる。みずからのもつ器官でありながら、どこかよそよそしくも感じられる。わたしのなかにある「姉妹」の部分を、どこか誇らしくもくすぐったくもおもいながら、たいせつに、まぶたをおろす。

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