中津 昌子


秋風(しうふう)に思ひ屈することあれど天(あめ)なるや若き麒麟の面(つら)

塚本邦雄『天變の書』(1979年)

 

 

秋になると、ああ秋の風だなあ、と思うと、この歌を思い出す。

思い出すというより、それこそ歌の方から、心に寄り添うように近づいてくる。

 

なんとも重い気分であるが、見上げるところ遥かに若いきりんの顔がある。

 

あきかぜ、ではなく「しうふう」、特に旧かなで振られたルビには、上からおさえつける感じがあって、この憂鬱な気分にふさわしい。

「あれど」でいったん切り、「なるや」で小休止が入る。下句は八・六音。

結句の字足らずの抜群のキレによって、一首は鮮やかな印象を残すが、この効果には、上句の流れ(「しうふう」の長音に始まったあとの「屈する」の促音と「つら」との呼応)に加えて、四句目の句切れを含んだ八音の影響も大きい。

また下句、あかるいア音からの「天なるや」で大きく高らかに切りかえして、上句の気分を一転してしまうこの技。

最後を「つら」と吐き捨てるように言い放たずにおかせないものは、若い麒麟に寄せる思いの強さ、頼みとするような気持ちに他ならないだろう。

 

ところでこの歌について、魚村晋太郎さん(塚本のお弟子さん)からいろいろと教えてもらうことがあった。

麒麟に麒麟児的な青年に対する追想が感じられるようだ、と言われ、また「天なるや」については、『古事記』の「天若日子」のところに「天なるや 弟棚機(おとたなばた)の うながせる 玉の御統(みすまる)、御統に あな玉(だま)はや。み谷(たに) 二(ふた)わたらす 阿遅志貴高日子根(あぢしきたかひこね)の神そ。」という歌があることを教えてくださり、塚本は若くてうつくしいたなばたひめを、若い麒麟に詠みかえたのでしょう、とも言われた。

唸りました。塚本の歌はたぶんに二重底、三重底になっている。

「麒麟」に若い誰かれが思い浮かべられているという話は聞いたことはあったのだが、さらに底をさぐってみようともせず、愛誦していたとは恥ずかしいかぎり、でもそういう愛し方も歌は許してくれるような気がする。

と同時に、この秋、この歌を一段深く味わえるようになった喜びもふかいのである。