採血車春の車道に横向きに驟雨のなかのわれをいざなふ

荻原裕幸『青年霊歌-アドレッセンス・スピリッツ』(書肆季節社、1988)

「横向きに」が効いている。歌意としては車の側面を主体に見せて停まっているというだけのことだろうが、横向きにといわれるとどうしても、目の前に横たわって主体を誘う人の体を思い浮かべてしまう。 そもそも「採血車」の中にはその日採集された、人間のほんものの血液が保管されているはずだ。内に血を満たすものは結局のところ肉体となって主人公を誘うのである。

『青年霊歌』中のこの歌のひとつ後には、

一瞬のためらひののち販売機麒麟きりん麦酒ビールをみだらに吐けり

がある。この酒を「みだらに吐」くという自販機(缶ビールやカップ酒の自動販売機というのを、そういえばとんと見なくなった)は、単なる擬人法を越えて主体の目にはほとんど泥酔する人の暗示として映っている。数時間後の自分自身をそこに見ているのだろうか。酒を飲めば酔うというほどのわかりやすい道理が、世間にはあふれているという、主人公の、ちょっと世の中を侮るような気分がここには微妙に反映されている。これは『青年霊歌』という歌集に通底した感覚だ。

歌集中、主体は「採血車」にかぎらず実にいろんなものにいざなわれてもいる。

朝刊のパンダはわらふ極彩の写真の陛下はわれに手を振る
桔梗咲く庭の見知らぬ隣人がわれにほほゑむわけを問ひたし
たはむれに釦をはづす妹よ悪意はひとをうつくしくする

現実の女性も含めて、世界(他者)はこぞって主人公に手を差し伸べ、主人公の方はそれを満足げにながめているというような調子。主人公はいつも受け身で、けっしてみずからの手を汚して世界の側をいざなおうとすることはない。ただ他者の行動を自分への「いざない」として解釈する遊びを続けるのみ。その究極的なところに「採血車」を詠んだ今日の一首がある。

あるいは、次のような歌も注目すべきだろう。

女子大学前くれなゐのスポーツカー卵爆弾たまごばくだんでも投げようか

みずからは決していざなう側にまわらない主人公は、女子大前に止められたスポーツカーを見たという屈辱的な場面でも、卵爆弾という効果不明な攻撃手段に言及するのみで実行に移すことすらもおそらくはない。「くれなゐのスポーツカー」なんかより、あの血を内に秘めた採血車という肉体の、なんと魅惑的であったことだろう。そう自分に言い聞かせながら、余裕ぶってスポーツカーのもとを去る主人公の顔つきが目に浮かんできそうだ。

*引用は『デジタル・ビスケット』(沖積舎、2001)によった。

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