寺尾登志子『黄道光』
昨晩はほのかに雪が降った。目覚めて窓を開けば、朝日を浴びる遠くの尾根に、雪が白く残る。「消えぬ」だから、真っ白に冠雪したというより、半分ほど山肌を見せた状態で雪が残っているのだろう。純白と山肌がせめぎあう巍巍たる光景だからこそ、「風来たり」が活きる。冬の朝の風の、肌を刺す鋭さと冷たさが伝わってくる。
その風を頬に受けて、ふと思うのは「言葉」のこと。「言葉いくたび人に滅びし」の「人に」は解釈が難しい。「人類の歴史において」と取るのが順当だろう。どれほどの言語が過去、滅んで来たのだろう。そう考えるとき、短歌に携わり、日本語を受け継ぐことに何らかの宿命を感じたはずだ。それは、冷たい尾根から吹き下ろす風を受け止めるようなことだ、と。
その一方、「ある一人の人間の精神からどれほど言葉が失われたか」と取ることもできる。この場合は、ただ単語を忘れるという他に、衝撃のあまり「絶句」してしまったという意味も生じるだろう。それは掲出歌が「風 舞踏家直史氏に」という一連に含まれていることとも関連する。
うたびとの葛原妙子その兄の<露西亜舞踏師>雪に翳ろふ
をがたまは晩年の華いもうとは終生(ひとよ)めとらぬ兄を悼みつ