澤村 斉美


血は出口探して巡れるものならず夜の運河と遥か釣り合ふ

桑原亮子 「塔」2010年8月号

血は体内をめぐり続ける。もちろん代謝はあるけれども、入り口と出口があったり、川のように上から下へ流れて海へ至るといった一方向の流れではない。閉じられた肉体に血がめぐり、「私」を息づかせるということ。端的ながら力強く、いのちの深部に触れる上句である。そんな「血」の在り方を認識したとき、作者はふと「夜の運河」を思う。水路に湛えられた暗い水が、たぷたぷと静かに揺れる。このイメージは上句に返り、体内のほの暗さと、血の息づきの静かさを加えてものがたる。そして、「遥か釣り合ふ」は、ものすごい結句だ。血と運河が「響き合う」と私は読んでみたけれど、やはり「釣り合ふ」でなければならない。「釣り合ふ」と言うことによって、この歌は「血」と「運河」とのアナロジーに終わるのではなく、もっと広いところへ出ていく。存在の深部と言おうか。血のめぐるいのちと、遥か遠くの運河とが、同時に同じ地平にあって、互いを知らずにそれぞれの論理で息づく。作者の詩性は、互いにかけ離れた存在だったそれらのものを邂逅させる。三十一音という短く厳しい定型の中でそれが行われたとき、邂逅の奇跡性は高まり、存在の深部に突き刺さるような気が、私はする。

 

桑原亮子は、今年の歌会始で次の一首が入選した。

 

 霜ひかる朴葉拾ひて見渡せば散りしものらへ陽の差す時刻

 

晩秋の山間、霜のひかる朴の落葉を一枚拾って見渡すと、あたり一面に落ち葉が散り敷いている。そこに陽が差している。陽の差す「時刻」とした結句がやはり深い。「陽がさしている」でもなんでも7音にはなる。が、「時刻」でなければならない。私は昼の近づく午前11時ぐらいを思った。冬の近い季節、それぐらいの時刻の陽の高さになってようやく、林の中の落ち葉散り敷く地面に広く陽が差してくるのだ。「時刻」は、誰にも、なにものにも、等しく訪れる。落ち葉を拾った私と落ち葉とを含む世界へと、視野が開かれる結句である。

 

いのちや存在を、大きな世界観の中で顕かにする。桑原亮子の短歌にはそういうところがあり、私は彼女の歌を読むたびに、短歌らしさ、短歌ってこういうことだよなあという思いに駆られる。同世代にこういう歌人のいることが、めちゃくちゃ嬉しい。