花弁より飛び散り易き歌のむれ風に揉まれて来る黒人兵

新城貞夫『朱夏』

 

この花弁は桜なのかもしれないし、そう読めば読んだで解釈もできる。でも、なんとなく桜ではないような気がする。それは作者が沖縄の歌人だから、というだけではない。結句に唐突に現れる「黒人兵」のイメージを受け止めるには、桜のように小さくもろい花では弱いように思うのだ。じゃあ何の花だと言われても、分からないのだが。

 

本歌集は1964年から69年の作による一冊。ベトナム戦争が遂行中で、沖縄は出征する米兵、帰還してきた米兵であふれていた。中でも「黒人兵」は米兵として沖縄人に高圧的に対しつつも、白人兵からは低く見られ、最前線要員にされていたとも聞く。そこには単純にはうかがい知れない、何重もの格差の枠組みがあったのだろう。その不安定な場所にいる「黒人兵」に、新城は複雑なまなざしを投げかけている。単純な敵でも、完全な味方でもない。シンパシーを抱きもするが、憎しみもある。「風に揉まれて」という描写には、黒人兵を立場の弱い者として見る視線があり、しかしながら、「花弁」や「歌のむれ」のように飛び散るものでもないとも認識している。

 

それは当然、「歌のむれ」と、それを作る己は飛び散りやすい存在でしかないという認識とも組になっている。「日本の短歌」を紡ぐ「沖縄人」の自分。飛び散りやすい「無力な短歌」。「本土」と「沖縄」。「アメリカ」と「沖縄」。そして、「白人のアメリカ」から抑圧される「黒人兵」。この歌の背景がわかったふりなど、僕には到底できない。しかし、飛び散った花弁の奥から立ち現れる、風に包まれた黒人兵の鮮明な姿には、心を打たれる。それがこの、飛び散り易き歌の、力なのだろうか。

 

  坂下るニグロは肩を落しつつ去るボクラ モウ 愛セヌモノヲ

 

誰が何を愛せないのか。黒人兵がアメリカをか、沖縄人が沖縄をか。それとも、沖縄人と黒人兵とがお互いに愛せないのか。この後、沖縄はゴザ騒動を経て、《返還》を迎える。

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