馬駆けて馬のたましひまさやかに奔騰をせり したりや! 〈葦毛〉

齋藤史『秋天瑠璃』(1993年)

「葦毛」には「あしげ」とルビがつく。この歌については小池光の名文がある。

(以下、引用)

   したりや! とはどういう意味であろう。よくやった! でかした!、あるいは、しまった! やりそこなった!、どちらであろう。読解が定まらない。しかし、その相半する両者を強引に含んで読む、読めるような気がする。「しまった」ゆえに「よくやった」。これ以上卒直な歴史への哀惜、鎮魂のことばはないのではなかろうか。

   そしてこれが、なんと名馬オグリキャップ引退に寄せる別れのうたなのである。 

(以上、引用)

 

小池光「うたの栄光」(『齋藤史全歌集』別冊-1997年-所収)から引いた。確かに、歌の左註に(オグリキャップ引退)とある。オグリキャップは1990年のレースを最後に、1991年京都競馬場と古巣の岐阜県の笠松競馬場で引退式が行われた。32戦22勝の人気馬で、当時私は小学生だったが、人生で最初に覚えた競走馬の名前がオグリキャップだった。それぐらいよく名前を耳にしたのである。引退後のオグリキャップは北海道で種牡馬になった。複雑骨折をして安楽死させられたのはいまからほんの1年ほど前、2010年7月のことだ。

 

掲出歌は、1991年のオグリキャップの引退に際しての歌であるが、小池は、齋藤史の父・瀏と幼なじみが二・二六事件関係者として処罰され、史がたゆまず二・二六を歌い続けてきたことを踏まえた上で「これ以上卒直な歴史への哀惜、鎮魂のことばはないのではなかろうか」という。「馬」を、過ぎ去った「昭和」、二・二六を含む昭和という時代と、時代を生きた人々として読んでいる。オグリキャップへの哀惜のみを読んでも、その哀惜の深さと鮮烈さに心打たれる1首だが、一本筋の通った思想を背景に感じずにはいられない歌であることは確かだ。歴史となりつつある、自分が生きてきた時代を、否応なく関わらされた時代を、「私は忘れない」という強い思いが感じられる。

 

「まさやか」は「真清か」。古語辞典を引くと「ありありとしている、はっきりとしていること」「(太陽、月などが)大変に明るい」「(音が)澄んで、高い」と3つの意味が挙げられている。「奔騰」は「非常な勢いで上がること」。「葦毛」は灰色の馬のこと。「まさやかに」は、この歌では3つの意味をすべて含んでいるように思われる。

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