楠誓英『月林船団』
影が「塀をつたひてくる」という把握に、面白みを感じる。じわじわと何かの手が伸びてくるように、もしくは、海が満ちてくるように、道端の塀に沿って、木の影がこちらに伸びてくるという。なんだかこの木の影に命が宿っているかのような描写だ。音もなく少しずつ進んでくる影のその向こう側に、夕陽が沈んでゆく。その対比が鮮やかであり、かつ、この影をじっと見つめる作者の、理由はわからぬ心のやるせなさも感じさせる。
そして視点は、夕陽の中のある一点に移る。暮れゆく光の中で、自転車を押してゆく男。ここで、影と夕陽との対比が、影と父親との対比に移転する。影はだんだんと伸びてくる。そこから上げられた視線の先に、自転車を押す男が入り込み、「吾が父」なのだという認識に至る。父は、夕陽に伸びる影の一人として、歌中世界に立ち現れる。その父親像には、作者が父に寄せる、優しさと寂しさが綯い交ぜになった感情が反映されている。
余計なことは何も言わない一首であり、その修辞には一切の作為も感じられない。上に書いたようなことは、作者は作歌時には考えていなかっただろう。「己の視界に何がどう映り込んだか」をストレートに描写すること自体に、作者の思索が写されてゆく。何をどう認識するかは、何を思って生きているかに左右されるからだ。このような詠風が、ここしばらく、さまざまなタイプの若手歌人に色濃くなっている気がする。
『月林船団』は、「アララギ派」に拠る若手歌人7名の合同歌集。せっかくなので、それぞれから一首ずつを挙げる。
地軸ほど頭傾げて青年の立ち読みしてゐる哲学の本 楠誓英
眼球を丸ごと洗ふ衝動を抑へながらに寿司食ひてをり 森垣岳
海苔海苔つて二回続けて言つてごらんやや仕合せな感じになるよ 宮崎大治
通帳をひとつ破棄してもどり来るざらつく月のひかりの道を 田中教子
この世とあの世の境は遺影の厚さしかないと気づく雨の夜なり 天西舞香
籠に入れ塩を振りたる蛙らの弱るを待ちて調理に入る 中田哲三
暗室に入りて眼(まなこ)の馴染むまで今朝の青空思ひ出してゐる 森星象