黒瀬 珂瀾


全うするとはいかなることかくれがたの防火バケツに降り込むみぞれ

中津昌子「レースに咲く花」(鱧と水仙36号)

 

「全うする」。大辞林によれば「完全に終わらせる。完全に成し遂げる」。「まったくする」の転であり、全うする対象の例として天寿、任務、節、終わりが挙げられている。で、もちろん掲出歌はそんなことを聞いてはいない。「なにかを成し遂げる」こと自体の意味を問うている。

 

さて、掲出歌のバケツ、みぞれが降り込むのだから当然、外に置かれている。一昔前までは地方に行くと、石か木製の天水桶を見かけた(今でもありますか?)。その上や脇には防火バケツがあった。今では樹脂製か金属製の防火水槽になったが、防火バケツは基本、姿を変えぬままで、地域社会の消防を担っている。このバケツも、個人の所有物か地域の公共物かは解らないが、作者の生活に近いところでひっそりと存在している。

 

いや、むしろひっそりとしてもらわねば困る。このバケツが大活躍する場面に遭いたくはない。するとこのバケツにとって「全うする」とはどういうことか。水を汲み運び、火難を鎮めることか。それともひっそりと物陰に置かれ続け、錆び朽ちることか。みぞれに打たれて音を立てるバケツを見つめながら作者はそれを考えただろう。そして、その心の裏で、人間が生を全うするとはいかなることか、とも考えただろう。何か輝かしい業績を成し遂げることか。それとも、平凡な人生のままに老いさらばえ、草木が枯れるように死ぬことだろうか。なんだか、このバケツは随分と錆びが進んでいるようにも思う。

 

  なじるまでにいたらぬ声というなれどレースの中の花の凹凸

  舗装路は左にばかり雨をため雨の小さな輪は途切れざり

 

レース刺繍の白い花々も、舗装路の脇の水たまりも、錆びてゆく防火バケツのように、ひっそりと世界にある。それでいて、この上なく確かな存在感を放つのは、どれもがその存在を「全う」しているからだろうか。