澤村 斉美


逢ふといふはこの世の時間 水の上を二つの星の光(かげ)うごくなり

森岡貞香『帯紅』(2011年)

 

(歌集題、収録作品とも、漢字は旧字体を用いている。場合によっては表示されない字もあるのでここではすべて新字体にしている)

 

『帯紅(くれなゐ帯びたり)』は森岡貞香の第11歌集。御子息の森岡璋氏が編集された3冊目の遺歌集であり、森岡貞香の歌集はこれで一区切りとなるという。最晩年の2004年から2008年の5年間に発表された歌、五百六十余首が収録される。いくつか引用しよう。

 

  現はれて草のうへ過ぎるてふてふに風の媚ぶるにうろたへを見す

  霧のなか褪紅色の湿原を見てをりしとき目覚めぬきのふは

  椎の木のなかにてとぼとぼ啼きゐるよ山鳩は二羽にあらず一羽

  菊を見に来よと誘はれし日の近づくに手帖の菊の字消えかかりゐる

  窓ぎはの日向にゐるときわが身柄刺繍の褪せたるごときのらんる

 

わが身に過ぎていく時間と、庭や旅先で触れる自然が内包する時間を、はかないと知りつつも手でふっとつかむように言葉で詠いとる。はかないものははかないままに、しかし、はかないながらも確かに在る。そのことを1首1首確かめるように詠っている。

 

さて、掲出歌は、初出一覧によれば2007年7月に『短歌研究』に発表されている。森岡貞香は2009年1月30日に亡くなったので、その1年半ほど前、最晩年といってもいいころの歌だ。初句二句の「逢ふといふはこの世の時間」の真意ははかりがたい。人と人が「逢ふ」ということは、この世、つまり生きている間にこそなし得ることなのだ、という。「逢ふ」ことを「この世の時間」とも捉えている。悟りの境地ともとれるし、この世でなければ「逢ふ」こともないというかなしみの言葉ともとれる。下句がその双方の心持ちを受けとめているようにも思われる。水に星の光が映り、水の動きにつれて揺れている景色がさびしくも美しい。