蟬脱のさまに飛行機の或部分ひらきしづかに車輪のいづるを

葛原妙子『朱靈』(1970年)

インターネットの環境によっては旧字体が出ない場合もあるかもしれない。念のため、新字体でも記しておく。今回の掲出歌は

 蝉脱のさまに飛行機の或部分ひらきしづかに車輪のいづるを  葛原妙子『朱霊』

である。

 

葛原妙子の歌集を読んでいると、生真面目だなあと思うことがある。本人の人となりは知らない。歌い方が、生真面目なのだ。掲出歌が収録されたのと同じ『朱霊』には有名歌、

  疾風はうたごゑを攫ふきれぎれに さんた、ま、りぁ、りぁ、りぁ

  他界より眺めてあらばしづかなる的となるべきゆふぐれの水

などもあり、これらのみを読めば、華麗な歌の作りや透徹たる美、謎を含みつつも読者のイマジネーションを刺激する魅力こそが葛原妙子の代名詞、と思えるかもしれない。確かに、葛原のこういう面に私も魅力を感じている。

 

ところが、掲出歌などはどうだろう。飛行機が着陸のためにしだいに滑走路に近づき、その腹のあたりが開いて格納されていた車輪が出てくるところを詠んでいる。「蟬脱」は「せんだつ」と読む。広辞苑によれば、「超然として世俗を脱け出ること。迷いから抜け出すこと」を意味する。超然と車輪が出てくる、というのだ。一方で、「蟬脱」の字づらから、やはり蟬が、その背中から殻をやぶって脱皮するイメージも重なる。「蟬脱のさまに」のたとえと、飛行機の車輪との取り合わせが思いがけなく、面白い。

 

「蟬脱のさまに」で飛躍している歌だけれども、「生真面目」というのは、「飛行機のおなかのあたりが開いて車輪が出てくる、あの様子をなんとか言葉にしたい」というエネルギーが歌の根本にあるように感じられるからだ。次の歌はどうだろう。収録は同じく『朱霊』である。

 

  ちゃんねるX點ずる夜更わが部屋に仄けく白き穴あきにけり

 

初句は「ちゃんねるX(エックス)」と読むのだろう。テレビをつけて、チャンネルをXに合わせるのである。「X」なるチャンネルが実際にあるのかどうか。あるいは、あくまで謎のチャンネルとしての「X」なのか。ちょっと凝り過ぎの感もある。だが、夜更けの部屋で光るテレビの画面が、「仄けく白き穴あきにけり」と捉えられると、「テレビをつける」という日常のなんでもないことが、途端に違和感として見えてくる。日常に根ざしつつ非日常に飛躍する手法が見えるが、この根本にも「テレビをつけた時のあの感じを詠いたい」というエネルギーが見えて、やはり「生真面目だなあ」と思うのである。

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