澤村 斉美


夕山をしぐれの去りて石蕗(つわぶき)は石段よりも光りいるなり

吉川宏志『西行の肺』(2009年)

晩秋の歌である。しぐれは、秋の終わりごろに降る、ふったりやんだりする雨。音もなくさびしい感じで降りだしてさあっと去る、という印象がある。夕暮れの山にいたところ、しぐれが来て去った。その後には、濡れて光る石段と、それよりも光る石蕗がある、という。しみじみと晩秋の景色の情感をたたえる歌である。

 

読者はまずどこに注目するだろう。「石蕗は石段よりも光りいるなり」ではないか。しぐれにぬれて石段が光る、というのは見たことの(読んだことの)ある景色だが、その石段よりも石蕗が光っている、というところに発見がある。とはいえ、発見をたのしむのにとどまる歌ではない。発見が歌の根本で働いているのは確かだが、それが前面には出ず、発見を面白がる気配が控えめである。山の中、あたりがしっとりとぬれ、石段があってそばに石蕗がある、というなにごともない景色が空気感とともに伝わるところがこの歌の醍醐味ではないだろうか。

 

石蕗は、私は花の咲いている様子を思い浮かべた。その丸く大きな葉だけでも、雨にぬれて照る感じはあるが、黄色い花もともにあり、石蕗全体としてぬれて光っている感じがいい。しぐれの降る晩秋という季節も、ちょうど石蕗の花のさくころである。また、字面の上で、「石蕗」と「石段」が並んでいるところに少しあそびがある(これはぜひ縦書きで読んで、双子のような字面の面白さを味わっていただきたい)。そういえばツワブキのツワはなぜ「石」なのだろう、と不思議に思って読み終えた。