永井祐「十月」(セクシャル・イーティング)
ロンドンの秋は寒い。先日、サマータイムが終了し、一時間巻き戻され、日本との時差は9時間となった。いよいよ寒い季節の到来、といった気になる。秋というよりか既に冬の感じだ。
ある秋の一日を振り返る一瞬。「今日は寒かった」のだから、どこかに出かけて帰ってきた夜だろう。その後に続く「まったく秋でした」という言い回しが面白い。「寒かった」「秋でした」と常体と敬体が一息に繋がっている。「今日は寒かった」から始まる純然たる独白が、誰かへのささやきの形へと自然と変容してゆく様子が掬い取られている。しかし、「まったく」という語の捻じれた使い方から見ても、上句はあくまでも独り言であり、明確な個人に向けた言葉ではないことが解る。 むしろ、自分自身への語りかけにも見える。しかし、この独白が微妙に変容する内側に、他者へのかすかな思いが透けて見える。
そして下句では一転、他者への関心が浮上する。「おもってやめる」という逡巡から、大切なメールでもないことが分かる。無内容のメールを誰かに送りたくなる小さな衝動。となるとこの歌の光景は、帰宅してから暫くして落ち着いた状況だろうか。寝床に座っているのかもしれない。独白体の上句と叙述的な下句のリズムのかっきりした違いが、一字明けを挟んで深く印象づけられる。だから上句は、メールの内容の説明ではないのだろう。むしろこの呟きが生まれた一瞬に続き、誰かにメールを出そうかなという《小さな衝動が起きたこと自体》が、歌の核だろう。
そして最後、さらに一字明けを挟んで、「する」という一言が置かれる。定型からはみ出た尻尾のような一言により、その《小さな衝動》に捕われる自己の姿がダイレクトに描かれる。まったくもって小さな出来事、小さな時間に訪れた小さな心の動き。それをスパッと切り取り、生々しく見えるように再構成して、読者に届けて見せる。そこにこそ、徹底した自己観察を行い、それに適した修辞を精緻に組み立てる永井の手腕がある。そうして、「特別ではない自分」にとっての、〈日常のポエジー〉が追究されるのだ。