手套にさしいれてをりDebussyの半音に触れて生のままのゆび

河野美砂子『無言歌』(2004年)

ルビがついており、本来は次の通りだ。

  手套(てぶくろ)にさしいれてをりDebussyの半音に触れて生(なま)のままのゆび

作者は歌人であり、ピアニストである。

 

演奏者は楽譜に記された一音一音について、作曲者の意図を解釈し、またどのようにその音を実現するのか探究する、と聞いたことがある。掲出歌も、そのように楽譜に向き合いながら音を探究しているところだろう。想像だが、ドビュッシーの曲には独特の半音があり、その音について考えながら何度も弾いてみているところではないか。まだ音楽は形になっていない。というのも、半音に「触れて」という表現がとても繊細だからだ。その音を理解したり、つかみとったというのではなく、「触れて」。まだ遠く観念のなかにあるドビュッシーの何かに「触れた」と、閃くように感じたのだろう。「生のままのゆび」には、おどろきや震えを含んだ静かな高揚感がある。その感覚ののこる指を大切に「手套」にしまう。

 
  鍵盤(キイ)の下にうすい氷が張つてゐてそれを割らないやうなタッチで

  ピアノ椅子(ベンチ)にふたりすわりて眼を見ずに埋没林の話してゐた

 

音楽をさまざまな角度から詠う歌集であるが、特に、ピアノからは次々と言葉が生まれ、作者・ピアノ・言葉・短歌の4態がやわらかな一体感を成している。1首目は掲出歌とも通じる傾向で、音を体で表現するその感覚を言葉にしようとしている。読者は、読むことで感覚を追体験する。鍵盤の下にあるうすい氷を割らないようなタッチ、と言われて、硬質で緊張感がありながら当たり具合はソフトな音を想像したが、同時に寒い冬景色も目に浮かぶから不思議だ。2首目は、また別の詠い方である。子供のころの思い出だろうか。横長のピアノ椅子に二人が並んで腰かけているところか。土砂などに沈んで海底や地中に埋もれた、遠い昔の樹林のことを話している。遠い世界が不意に身近に姿を現したことを、なつかしく、またいまだに新鮮に思っているのではないだろうか。ピアノとピアノのめぐりからうまれた世界が、作者の言葉と短歌を通して、位相を変えて作者に戻っていく。作者とピアノと言葉と短歌の関係が興味深い。

 

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