澤村 斉美


『夜と霧』つめたきこころのままに読みときどきおほき黄の付箋貼る

藪内亮輔「海蛇と珊瑚」(2011年)

短歌雑誌4誌が行う2011年の新人賞が出そろった。率直に言って、新人賞を見直した。いい年だったと思う。受賞作、候補作を含めて、読者としての、また作者としてのこちらを刺激してくる作品が多く、読んでいて胸が高鳴った。印象に過ぎないが、ゼロ年代を消化しつつ、またゼロ年代とは明らかに違うものが出てきていることを感じた。東日本大震災を経ていることが、作品と選考委員の評に反映されているように思われた箇所もいくつかあった。

 

その中で気になったのは、短歌研究新人賞と角川短歌賞の双方で「切迫感」や「必死さ」といったものが評価されたことである。馬場めぐみ、立花開それぞれの受賞作を面白く読んだが、一方で、それらとは異なる傾向を持つ角川短歌賞次席の藪内亮輔「海蛇と珊瑚」は、その表現力が抜きん出ており、世代や時代を超えて読者を立ち止まらせる力があるように思う。

 

掲出歌は、なんでもない歌だ。ナチスのユダヤ人強制収容所に収容されたフランクルの『夜と霧』は、たびたび死に言及する「海蛇と珊瑚」一連の低音部となっているのかもしれない。しかし、そうした一連の構成力とは別のところに作者の持ち味はあるのではないか。手応えを確かめながら『夜と霧』を読みすすめる心のありようを、「おほき黄の付箋貼る」に着地させて、一首で充分に伝えてきっている。そこが良いと思う。

 

  向かう側の雪をうつして窓がらす静かでゐるといふ力あり

  晩年の姿を残しひとは逝く橋の手摺りを越えて降る雪

  印刷機がゾッウッゾッと出してゆく空に根を張るごとき梅の木

 

いずれも、線の太い言葉づかいである。それでいて、「ゾッウッゾッ」のように、見たことのないちょっと気持ち悪くも的確な表現も試みる。「切迫感」や「必死さ」に依らず、仮にそれらが詠う動機としてあったとしても、いったん内側におしとどめて、腹の底から言葉を選んできている、そんな作風だと思った。切迫感などを表白することと、それを力ある言葉に結実させることとは大いに違う。どちらがいい、悪いという話ではないが、しかし、短歌だからこそできるのは後者ではないか。そんなことを考えた選考座談会だった。

 

「海蛇と珊瑚」の批判点については、選考委員の米川千嘉子が作品の良さを積極的に認めながらも挙げた「『死』というものがひとつの装置になっているのではないか」という点に、非常に納得がいったことを付け加えておく。