永田紅『ぼんやりしているうちに』(2007年)
「人」は同僚か。仕事に集中して凝ってしまった体を軽くほぐす。二度、三度と首をまわして、その合間にふと窓の外を見る。仕事場は建物の上階の方にあり、「人」は何を思うのでもなく、歌集題の言葉をかりれば「ぼんやり」と見下ろしたのだろう。そんな風景がやはり「ぼんやり」と作者の目にも映っている。
この「ぼんやりと」感をどう説明したらいいのだろう。歌集には、
われはわが時を生き継ぐしかないよ夏至の日に咲くしろい木の花
という歌のように、生きることについての思いをまっすぐにぶつけている歌も多くあり、相聞歌や研究員としての生活をつぶさに歌う歌もある。しかし、歌集の世界をぶ厚くしているのは案外掲出歌のような歌だ。
立ち話のくらき廊下の背景に矩形の光ひらかれてあり
手を振りて上下にわかれゆく人をわれは踊り場でながめていたり
二次会の場所は知らずただ従(つ)きゆけばあちらこちらに手相見がいる
看護婦が私服となりて帰りゆく「雨」と言い合い傘を持ちゆく
1首目は、作者が誰かと立ち話をしている、と読んだ。廊下で立ち話をしながら、しかし、特に意味を持たない背景である窓の「矩形」の光を記す。2首目は、階段の上から来た人と下から来た人が、知り合い同士らしく、すれちがいざまに手を振りながらそれぞれの方向へわかれていく。それを、たまたま踊り場に居合わせて見ているだけのわれ。「私」を描くのではなく、「私のいる世界」を描きとめることがつまり、「ぼんやりと」なのではないかと思う。3首目、4首目も、手相見や看護婦がいて「私」が過ぎてゆく空間が、色濃いものとして立ち上がる。立ち上がったものは、「私」の人生のいわば余白である。「私」が直接に関わるものではない。すれ違うものである。が、ひどくいとしいものとして伝わってくるのはなぜだろう。
おそらくは無名に過ぎし生前の朝の窓辺にとまるコマドリ
「HeLa細胞」と題する一連がある。HeLa細胞とは、「一九五一年に樹立されたヒト由来の最初の細胞株」なのだという。一連によれば、黒人女性Henrietta Lacks(ヘンリエッタ・ラックス)の子宮頸癌細胞がその死後も生かされ続け、実験に使われており、彼女の名前の頭文字をとってHeLa細胞と呼ばれているのだそうだ。この歌はヘンリエッタの生きていたころに思いをめぐらす歌だが、「朝の窓辺にとまるコマドリ」は作者の想像だろう。ヘンリエッタの生活の余白にあったかもしれない風景から、彼女の生に触れようとする。歌の読者をもヘンリエッタに近づける力が、一連においてはこの歌にある。
生は、重ねられた余白に宿るのかもしれない。余白に過ぎず、すれ違っただけ、と見えたものが、時がたって、「私」が生きたしるしとしてごく自然に、やわらかに、経験となり、記憶となり、「私」を温めるということもある。作者はそのことをごく自然に知り、歌いとめている。そんな一冊であるように思った。