黒瀬 珂瀾


バスのドア開かるるたびにわが足に冬の日が差す心渇きて

黒田淑子『丘の外燈』

 

日本では先日、立冬を迎えたようだが、東京あたりではまだ「冬」という気分ではないかもしれない。いかがでしょうか? ロンドンでは本格的な寒さの訪れを感じさせ、日照時間も短くなり、中心街はクリスマス気分というか、暗い冬をはねのけようとする飾り付け一色だ。

 

そんな寒さが増しゆく日に、バスに乗っている。停留所で扉が開き、薄暗いバスの中に外から日光が足にさしてくる。扉近くに座っているのだろう、扉が開閉するたびに気を奪われ、光を見る。「外界」が気にかかるのだ。まるで、《バスに座る自分》を《小さな世界に捕われる自分》に見立てているような感覚でもある。だが、その視線は外界をまっすぐ見つめるわけではない。作者の視線はじっと、己の足に落とされている。ドアが開き、明るい冬の光に照らされるほんの数秒、「わが足」を見つめる作者。薄暗い空間に置かれた足が、わずかな時間だけ光を浴びる。

 

まったくもって意味のない日常の些事だが、こうして歌に切り取られると、深い暗示を秘めているように思える。そして作者はこのかすかな時間に、「心渇きて」いる自分を発見した。冬の光は、足の歩みを「外界」に誘う徴(しるし)かもしれない。しかし作者はこのままバスに乗り、定められた目的地へと向かうだろう。「渇きて」という言葉は、何かを渇望、希求する心を感じさせる。そしてその心は、渇望を抱えたまま、日々の生活に戻ってゆく。

 

  あやまてる愛などありや冬の夜に白く濁れるオリーブの油
  やうやくの逢ひの後さへ行先の違ふ切符をもちて別るる
  わづかづつ積りし嘆きわが持ちてしなやかならぬ皮の手袋

 

同歌集には上記のような歌がある。特に一首目はよく知られた冬の秀歌だろう。「愛に過ちなどあるだろうか」という思いを、静かな心の奥に秘める。しかし、その心が見透かされゆくように、冬の寒さにオリーブ油が白く濁ってゆく。すべての愛は過ちであるゆえ、正しいのかもしれない。そして、違う切符を買っての別れと、こわばった皮手袋。どれもが日常の些事だが、その些事の中にこそ、激情のかすかな兆しがひそんでいる。