澤村 斉美


胸ぬちに凝れるものを告げ得ざる秋や五裂のもみぢ色づく

大塚寅彦『夢何有郷』(2011年)

歌集題は「むかゆうきょう(表紙での表記は旧仮名で〝むかいうきやう″)」と読む。

 

掲出歌は「喪心」という題の一連のうちの一首。一連は、作者の師である春日井建を悼む。

 
  歌の師を超えて師なりし春日井建逝きしは終(つひ)の叱咤なるべし

  死もて師はわれを磨かむ秋天の青こぼれたるごとき水の辺

 
春日井建は2004年に亡くなった。同じ一連に含まれるこれら2首は、「師匠」という存在の重みと輝きを伝えて読者の胸を打つ。師の死を「叱咤」として、あるいは、死ののちも自分を磨くものとして、受けとめる。師匠が残したものを背負って歩くために、作者はぐいと前を向こうとしている。死をめぐる感情の怒涛を一巡りした上で、自らに区切りをつけるための歌だろう。「師」を持つ者ならおそらく誰でも、これらの歌を読んで、それぞれの「師」の姿をその胸に呼び覚まされることだろう。

 

一方で、掲出歌は慟哭の渦中にある、と見た。心に「凝れる」ものとは何だろう。師匠への感謝、反論、聞いて確かめたかったこと。あらゆることが心に渦巻いているはずだ。「五裂」は葉の形状を示す言葉で、ここではもみじのあの手のひらの形のような、葉先が五つに分かれた形のことをいう。だが、この歌では、師匠に告げられなかったたくさんのことを思って乱れる心の形象でもある。先に挙げた2首が公式に通用する挽歌だとしたら、掲出歌は私的に師への思いを吐露する挽歌だ。誰と共有するのでもない、ただ一人自らの心を見つめて踏みとどまるこちらの歌の方を挙げておきたい、と思った。