何待ちしひと日の暮れぞいたはりのごとくしづかに靄たちてくる

藤井常世『草のたてがみ』

 

夕暮れの靄(もや)。暮靄(ぼあい)、夕靄(せきあい)という美しい言葉もある。視界を遮る霧とは違って、比較的見通しがきく靄は、夕暮れの光景に美しい紗をかける。漢詩では「煙」、「烟」と表現されることが多いが、崔顥の傑作「黄鶴楼」を思い出す。「日暮郷關いづれの處か是なる、煙波江上人をして愁へしむ」の「煙波」である。

 

掲出歌では、靄はまだ完全には広がっていない。日が暮れかかり、だんだんと気温が下がり、少しずつ蒸気が靄に変わりだした。冷えた足元からかすかな靄が音もなく立ち込め、眼前の景が湿りを帯びてゆく。どんな光景かはこの一首では描写されないが、それは広々とした空間にも思える。なぜなら、この一日を作者は、何者か解らぬものをただ待ち続けて過ごしたからだ。そんな時間には、茫漠たる景が似合う。

 

「何待ちしひと日の暮れぞ」、つまり、来るのかどうかさえ解らないものを待っていたのだ。それは叶えられず、ただ時が過ぎ、呆然と夕暮れを立ち尽くす。そうした感慨を得る心はまさしく、無為の悲しみに感応し、名状しがたい希求にみなぎっていただろう。まるでベケットの『ゴドーを待ちながら』を思わせる感覚でもある。そんな己を靄がやさしく包む。雨ほど厳しくなく、霧ほど濃くない靄を表現するのに、「いたわり」とは実に卓越した語の選択だ。やさしさで己の身ををうすく湿らせる靄。裏を返せば、今の己には、労わってくれる存在が靄しかいない、ということでもある。柔らかな靄の中に立つ《私》はひとり、何を希求していたのか。

 

  片がはに夕日を受けて輝ける樹が見ゆあたたかき魂が見ゆ

 

この樹もひとりで立っている。片側に夕日を受けるからには、もう片側には影を抱えている。 そうして光と影のあわいに輝くこの樹に、「あたたかき魂」を見る。むろんそれは、この樹を見る《私》の内面が憧れる、魂のあり方そのものでもある。

 

 

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