激情の匂いするみず掌(て)にためてわたしはすこし海にちかづく

江戸雪『椿夜』(2001年)

洗面のためか、あるいはなにげなく水をすくったのか、ともかくごく普通に手のひらに水をためている。が、それを行っている「わたし」は辛うじて外面の普通を保っているのではないかと思われるほど危うい。「みず」に仮託されているが、「激情」は「わたし」のなかにある。「水」という言葉を得て初めて、純粋でおしとどめようのない感情が形を得、「わたし」の目の前に現れる。そして下句の「わたしはすこし海にちかづく」は、「激情を抱えたわたしそのものが海になる」ということとして読んだ。激情が解決を得て収まるのではなく、激情をその本性のままに、海として解放してやる。下句のカタルシスが印象的な一首だ。

 

女性的な情念の濃い部分をすくいとった歌であり、歌い方によってはかなり重くもなるだろう。しかし、江戸雪は軽やかで自然な口語文体で歌いこなす。複雑な情念を五七五七七の定型にぴったりと収めながら伝えるところに文体の特徴がある。第二歌集『椿夜』の前に、第一歌集の『百合オイル』(1997年)があるが、第一歌集ですでに、心の複雑な襞や感覚が軽やかな口語文体で表されているところが興味深い。俵万智ら80年代の口語文体とはまた異なる、「短歌用の書き言葉としての〝口語″」の成熟が垣間見える。『百合オイル』からいくつか引こう。

 

  エッチングのような雨です留守電をあおい厨にしゃがみつつきく

  光る虫みることのなきこの街に曲がっても曲がっても道続きたり

  五階から投げればきっと風を抱くぶあつい手紙、志染町(しじみちょう)あて

 

1首目は、下句では口語文体で状況を簡潔に描写しながら、上句では「です」調で雨を喩えている。「エッチングのよう」と不意に感じた、その感覚が際立つとともに、憂いを詠い得た一首だ。2首目は、「なき」や「たり」のように文語が基調の文体だが、「曲がっても曲がっても」の口語10音に感情がこもる。3首目は中でも私の好きな歌で、「五階から投げれば」にこめられる「投げたい」という瞬間的な願望と、「きっと」や「ぶあつい」という口語の素直さとがあいまってとてもいい。「志染町」は兵庫県三木市にある地名であるようだ。

 

編集部より:江戸雪歌集『椿夜』はこちら↓

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