秋のよるもう寒いねと傳八で品書(しながき)見をり おからがいいね

高野公彦『水苑』(2000年)

秋も深まり、辺りが暗くなるのが早い。余談だけれども、この歌から思い出した光景がある。学生のころ、とっぷりと暮れた大学界隈を急ぎ足で帰るとき、なお暗い脇道にふと目をやると、知っている教授が一人で小さな居酒屋に入っていく、そんなことがたまにあった。そっと、しかし、慣れた感じでするりと入る。こちらは講義を受けるだけで直接話したことはない。そんな間柄であっても、なんとなく親しみがわいた。講義をして、少し(かどうかは分からないが)飲んで、帰る。たぶん一人でのむ。「先生」という役割が外れた先生のほそぼそとした佇まいが心にのこっている。

 

この歌も、一人で飲みに行っている様子を思い浮かべた。「傳八」は私はよく知らないけれども、居酒屋の名前だろう。秋の夜、「もう寒いね」と話しかける相手は店の主人か。なじみの店の感じである。品書を見て「おからがいいね」とつぶやくごとく注文する。さびさびと、秋の夜の感じが出ている。「おから」というところがまた、いい。

 

二人で来ている、と読めなくもない。「もう寒いね」と「おからがいいね」という話し言葉の相手が一緒に来た相手であってもいい。だが「寒いね」から連想される 

 

  「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ 俵万智『サラダ記念日』

 

とは、この歌はどうも違う味だと思う。俵万智は、寒い中で「寒いね」と言葉をかわすことで二人の間に流れるあたたかな空気を歌う。高野公彦の掲出歌は、一人で、自分のみが知る自分のたましいをそっと温める、そんな温かさを会話体で伝えている。

 
  ねむる鳥その胃の中に溶けてゆく羽蟻もあらむ雷ひかる夜

  人が梯子を持ち去りしのち秋しばし壁に梯子の影のこりをり

  しろじろと箪笥の咬(か)んだ布のはし夜半のめざめに見てまた眠る

 

同じく『水苑』から。鳥の胃の中に溶けていく羽蟻や、壁にのこる(のこっているはずはないのだが)梯子の影など、見えないはずのものを透視するかのごとく描く。そのようにして手元に引きつけられた、このなんとも言えないリアリティーはいったい何なのだろう。3首目の箪笥の咬んだ布の端の歌は、ごく日常的な光景であり、なんら不思議なことはないのだが、日常を遊離してひえびえとした印象がのこる。布の端の向こう側に作者が透視しようとしているのは何なのか。

 

掲出歌とこれら3首とは、歌い方はまったく異なる。だが、どの歌においても、ものに感じ、ゆらゆらと豊かにうごめく、生きているたましいがひっそりと見つめられているように思った。

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