満ち潮がかえりくるころ船たちは橋くぐり抜け川船となる

三枝昻之『太郎次郎の東歌』

 

河口の風景だろう。橋の上から作者は河を見下ろしている。すぐそこに海が広がっている。ちょうど満潮になった頃で、海側から河口に海水が流れ込んでくる。海水と淡水がまじりあった汽水域だ。河口の水深が増し、そこに浮かんでいた小船たちがすこしばかり流される。ちょうど作者が立っている橋を越えたあたりまで、押し戻されていたのだ。

 

時間はいつだろう。潮の干満は一日で約50分ずつずれるから、いつでもいい。だが、「かえりくるころ」という言葉から、なんとなく夕方以降に思える。満ち潮が帰ってきた、という表現の裏には、自分も帰ってきた、という感慨があるように感じるのだ。朝、満潮から引きゆく潮を見かけ、帰途、満潮になりゆく潮を見かけた。この上句は、ひと日の始まりと締めに潮を見たからこそ生まれたのではないか。そうすると、潮に流される小船たちも、「日々の己の生」と重なってくる。

 

朝に見た船は海側にあったのに、夜に見た船は橋より上にある。「川船となる」の「なる」には、今は「川船」となっている小船たちだが、数時間前は「海船」であったのだ、という意味が込められている。この小船たち、時には沿岸を航くこともあるだろう。しかし今は河口に停留され、潮の満ち引き次第で「海船」となり「川船」となる。日毎に橋をくぐる船たちを、作者は橋の上から幾度となく見下ろしたことだろう。そして、世間という潮の満ち引きに流され、また押し戻される己のことを思っただろう。

 

  折々に人を呑みこみ発つバスは坂上に来て陽を返したり

 

渋い。この渋さはやはり、小生活を篤実に見つめる詩情から生じているのだろう。小船もバスも人の営みに直結し、朝夕ごとに人を、そして人生を運んでゆく。

 

 

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