黒瀬 珂瀾


何ものかを守るかたちに擦る燐寸バーナーに湯を沸かさむとして

林田恒浩『晩夏をわれに』

ガスバーナーに点火するために、マッチを擦る。湯を沸かすのだというが、何のためだろう。マッチで点火するバーナーだから、高性能のものではなく、小型の実験用バーナーか。工場や現場ではなく、学校の理科室か、大学などの研究室のようだ。そうしてマッチを擦り、思わず手で小さな火を包んだ。むろん風から守るためだ。中毒などを防ぐため、窓は開け放たれたままなのだろう。だがその手はまるで、小さな火以外の何かをも守っているように思えた。そうして炎を、さらに何かを守りつつ、バーナーの先から噴き出るガスへと移してゆく。

己自身の手の、無意識による動きの中に感知した、予期せぬ発見。そして、心に小さな動揺が訪れた。つまり、自分には何か守るべきものがあるはずなんだ、ということにふと思い至ったのだ。「何ものかを」という通り、作者自身にもそれが何かは解っていないが、きっとマッチの火のようにいかにも小さく、儚いものだ。その小さなものを守りつつ、時には守り切れず、「湯を沸か」すような日々の営みを送ることが人生なのだろう。やはりこの歌の場面は、大学あたりの実験室ではないか。これからの人生に何かを見つけんとする青年の視線が感じられる。

  汚れたる濾紙もまじりて燃えゆくは愉楽のごとし暗がりのなか

  すたれゆかむ流行(はやり)言葉とおもへども戦無派と呼びてわれらをくくる

  柔弱のおもひ断ちきれずゐるときにほろほろと冬の野に風は吹く

  与えられし職場の机に伸びて来し春日(しゆんじつ)のなか十指をひらく

「戦無派」とは、戦争を全く知らない世代。戦後派の次の世代、ということか。個人情報を加えれば作者は昭和19年生だから、戦中生まれではあるが、物心ついた頃には戦争の影は薄くなっていたということだろう。そういう微妙な時代のはざまにあるという自意識が、一種のナイーブさを醸し出しているようにも思う。そして、実直に生きんとするストイックさと、未来への素直な希望も同居している。社会人として職を得て、春日の輝きに開く十指。それはもちろん、マッチの火のように小さな明かりをしっかり守らんとする指でもある。