大島史洋『封印』(2006年)
ラッシュアワーが過ぎて、乗客でごった返していたプラットホームも空いた。そのころあいを見計らって、駅員が梯子を持ちだし、時間がずれてしまった時計の針を直す。珍しい光景だ(よくあることなのだろうか。私は見たことがないが)。作者も、たまたま目撃して「あっ」と思ったのかもしれない。駅では時刻が重要だ。それを正しく保っておこうと服務する駅員の姿勢がどこか職人的で印象的である。時を正しくすることによって、秩序を保つ。あまり人の目につかないところ、陰で行われるシンプルな行為によって世の秩序は保たれているものだが、それがこうして歌で切り取られ、明るみに出た時、くっきりとした存在感を示す。
知る人ぞ知る体温として残れかし辞書への赤字を日々に重ねて
今日ひと日わが書き入れし赤字の量体温として残れかしこの辞書に
同じ歌集から2首引いた。辞書の編集に携わった作者だ。2首とも辞書の校閲作業を詠んでいる。原稿やゲラに書きこむ赤字の直しは、完成した辞書には決して残らない。が、誤字脱字の直しや、言葉づかいの直し、内容そのものの差し替えなど、赤字の積み重ねの上に完成品はある。どちらの歌でも、目に見えない仕事について「体温として残れかし」と言っている。「体温」という言葉がとてもいいと思う。仕事に費やした体力や、思考の痕跡、赤字を書き入れるという行為など、人間らしいさまざまなものが「体温」という一言に凝縮されているように思う。「日々」の積み重ねが「体温」として残ってほしいと思う心と、掲出歌で時計の針を直す駅員に寄せる心は、どこか通じ合っているように思う。