塩振りてひとりの轢死払ひ去る夜半の詰所(つめしょ)に食に戻りぬ

御供平佶『車站』

 

林田、大島と昭和19年生が続いたので、もう一人同年生の歌人を挙げよう。御供は国鉄に奉職し、鉄道公安官を務めた経験を持つ。鉄道公安官とは、駅構内や車両内での治安維持を職務とする職員。現在の鉄道警察隊の前身と言えるだろうか。掲出歌はまさに、鉄道を職場とする者が、否応なしに直面せねばならない状況を、冷静な視線で描写している。

 

自殺か、事故か。鉄道での人身事故が止むことはない。車両に接触し、轢死した遺体は、損壊も激しいだろう。作者は職務上、そういう状況に幾度となく立ち会っただろうし、実際に自らの手でその対応に臨みもしたろう。掲出歌の硬質な響きは、努めて冷徹であろうという意識を感じさせる。「ひとりの轢死」「詰所」「食」という語の素っ気なさ。あえてこれらの語を選びとる点から、己の感情を意識的に抑制しようする姿勢が見えてくる。偶然立ち会った「ひとりの轢死」を、あくまでも業務上の縁から見る。そこには、第三者が容易に踏みいることは出来ないはずの〈死〉を、己の感情表現の道具にはしないという決意、つまり、「他者の死」への誠実さがある。

 

「塩」は清めの塩か。この小さな儀礼で、「ひとりの轢死」に区切りをつけるのだ。そうして死を払ひ去り、〈われ〉は夜中の食事に戻る。この「去る」の語が、「ひとりの轢死」と〈われ〉の間に峻厳な境界を引く。そして、「食」というこの上なく直截な表現が、何があろうとも人はものを食わねばならないという事実を、ずん、と読者に見せつける。すると、初句の「塩振りて」もまた、命あるものがものを食う光景と響き合うように思えてくる。

 

  すれちがふときの何かが背に走り尾(つ)けてほどなし引つ立ててゆく

 

鉄道公安官として出会うものは、死の他にもある。例えば上の歌、すれ違った瞬間、その人物に何かを感じた。そうしてその人物を尾行し、ほどなく引っ立てた、という。もうおわかりだろう。掏摸(すり)の逮捕場面を描写した歌だ。私たち素人には解らないが、やはり掏摸は掏摸ならではの目つきというか、雰囲気があるのだろうか。この歌も「引つ立ててゆく」が極めて簡素で、そこに却って社会の実感がある。雄弁ならざる文体が実は雄弁であることの、好例の一つだろう。

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