澤村 斉美


黄楊の葉にさがる蜘蛛の子うつつには見えざる糸をのぼりはじめつ

落合けい子『じゃがいもの歌』(1990年)

黄楊の葉に、小さな、蜘蛛の子がさがっている。とはいえ、その糸は細く、光の加減かなにかで、作者からは見えないのだろう。蜘蛛の子が宙に浮いているように見える。その蜘蛛の子がするすると上にのぼりはじめた、という面白い光景だ。「うつつには見えざる糸」をのぼる蜘蛛の様子に目を驚かし、素朴に眺める。『じゃがいもの歌』では、この素朴な眺めが小さな生き物の息づかいを伝えている。

 
 薔薇の葉に坐る蛙も吹く風に揺れていにけりまなこ開きて

 黄楊の木に止まりておれる鵯がたまゆら白き息吐きにけり

 
まなこを開いて薔薇の葉に坐っている蛙、白い息をかすかに吐く鵯。生き物のふとした表情を捉えるこれらの歌には、生き物のぬくみそのものが宿っている。ところで、こういった視線が昆虫や鳥などの小さな生物のみならず、人にもそそがれているところが興味深い。

 
 電柱におりし男が夕ぐれの土の面に降り立ちにけり

 幼子が青澄む空を見上げおり寂しきことを人はするかな

 

1首目は、電気の工事の人が一日電柱で仕事をしていたところか。状況はそのように想像できるのだが、「電柱におりし」というところに、生態からして電柱の上にいる生きているかのような味わいがある。蜘蛛や鳥を眺めるのと同様に人の動きが捉えられており、そこにふと、人の生きものとしてのかなしさが出てくるのが不思議だ。2首目は、まさにそのかなしさを下句でほろりと言葉にしている。

 
 くちなわを造りしときもちはやぶる神は平らに笑みましにけむ

 

神もこのように描かれる。ヘビの姿は、なぜそのような姿生まれたのか、作者はいかにも不思議に思うことがあったのだろう。その不思議から始まり、「蛇」を造ったときの神を想像し、表情によって神を捉える。「平らに笑む」は、無邪気で無慈悲であるがままの神の姿を描きながらも、作者はどこかユーモアを交えている。蛇も、蛙も鵯も、人も、なんでそうなのかよくわからないけど生きている。身のめぐりの小さな生にかすかに笑み、また、かなしくも思う作者だ。生を素朴に眺める目が、生の温かみとさびしさを伝えている。