蒔田さくら子『翡翠の連』(2009年)
風の名前をいくつ知っているだろう。
ひがし、みなみ、にし、きた。方位を表す言葉はその方角からふく風の名であり、それぞれ春、夏、秋、冬の季節の風とされた。秋風が西の風とはかぎらないが、これは五行説と関係がある。
東風は、こち、南風は、はえ、とか、まじ、とも呼ばれる。
夏の風にかぎっても、梅雨の間の南風は黒南風(くろはえ)、梅雨があけてからの南風は白南風(しろはえ)と呼んで区別し、青葉のころ吹く風を薫風、または青嵐という。
樹をゆすって吹いた風は、いつの季節の風だったのか。
樹には青青と葉が茂っている感じがするので、やはり夏の風、それも青嵐という気がする。
劇やドラマで、両手で相手の肩をゆすり、はげしく問いかけるシーンがあるが、まるでそんなふうに風が樹をゆすって吹いていた。
樹はなやましく青葉を裏返して、風に身をまかせる。
樹がなにごとかを問われているように見えたのは、主人公自身が、何かを問われているような気がした、その気持ちの反映である。
なにか大切なことを問われているような気がする。
もうすこしで、そのこたえに手がとどきそうに思える。
なのに、何を問われているのかさえはっきりとわからないまま、問いもこたえもいつのまにかあとかたもなく消えてしまった。
日日を生きるとは、そうしたことのくりかえしでもある。