冬牛蒡せいせいと削ぐ時の間も詩語ほろび詩となる言葉あり

今野寿美 『世紀末の桃』(1988年)

旬の牛蒡を削ぐ。包丁で削るようにして、ささがきにしていくところか。「せいせいと」は、冬の空気感と、刃の冷たさや牛蒡のしろさ、刃が牛蒡を削る清々しい音、その作業に集中して澄んでいく作者の心など、さまざまなものを含めての「せいせいと」だろう。漢字をあてるなら「清々と」が近いか。しかし、「生々と」でもよく、どちらも含むことができる平仮名の「せいせいと」がやはり一番いい。気持ちのいい音である。

 

牛蒡を削ぐ作業をしながら、「詩語」がほろび、またあたらしく詩になる言葉があることを思う。刃物でものを削るという作業からの連想だろうか。詩を作る者たちが言葉を捨て、あるいは選び磨いていく。その作業の積み重ねのなかで、ほろぶ言葉があり、詩の中で新しく生きる言葉がある。下句で大らかに展開し、言葉の浮き沈みに思いを至らせているところが魅力的な歌だ。

 
  やはらかに文語の季節さりにけり花見むとしてわれは目を閉づ

 

作者にとっては文語もまた、ほろぶ「詩語」の一つなのだろうか。ほろぶとまではいわないが、「文語の季節が去り」と、文語から人々が去ったことをやさしく、寂しく認める。しかし、下句「花見むとしてわれは目を閉づ」では、文語の「花」を胸の内に見つめようとする。人々が去ろうとも私は文語の「花」が好き、その花をそっといつくしみますよ、という心なのである。ほの明るくもたおやかで、どこか寂しさもある一首だが、詩語の浮き沈みを超然と見つめているところは掲出歌とも通じるように思う。

 

  まこと自在の駝鳥の首をさかのぼる神経の束こそ美(は)しからめ 

  『世紀末の桃』

  きみが手の触れしばかりにほどけたる髪のみならずかの夜よりは

  『花絆(はなづな)』(1981年)

  もろともに秋の滑車に汲みあぐるよきことばよきむかしの月夜(つくよ)

  『星刈り』(1983年)

 

文語の「季節」は移るけれども、かわらず愛らしく、美しく思えてしまうのだからしょうがない――。作者の文語の使い方には、そのような文語への愛がにじむ。1首目は、駝鳥の首の神経の束、という斬新な題材を扱いながら、「こそ美しからめ」と係り結びで驚きを強調する。「はしからめ」という音の美しさは古語だからこそ生まれるものだ。また王朝の女房文学の語り口を思わせるところもある。特に、感興を素直に表しているところが「枕草子」調で、その、ものに感じる心の素直さが時を超えていていいなあ、と私は思う。2首目の恋歌も文語ならでは。3首目は「よきことば」と、「よきことば」が生きていたころの「よきむかしの月夜」を思う歌だ。「もろともに」「汲みあぐる」「よき」の文語が似つかわしい。

 

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