黒瀬 珂瀾


溶けあうものすべて溶けあいからみあう声が木馬のごと揺れるなり

大庭れいじ『ノーホエア・マン』

 

溶けうるものがすべて溶け、さらにからみ合う。「すべて」は混在し、かつての姿を失う。それが「声」なのだという。そもそも声は、人が人に言葉を伝えるために発せられることが多い。だから、その声が混じり合っては、誰からのメッセージなのかが分からなくなるし、その内容も不明となる。しかし、この歌の中では、すべての声はからみ合い、「木馬のごと」揺れる。

 

「木馬のごと」という比喩に、ふと考えさせられる。おもちゃの優しさを思わせるようで、命の無さも感じさせる。楽しげに揺れそうで、しかし、決して前に進むことはできない。永遠にとどまり続け、成長なく、変化もなく、ただ前後に揺れるだけ。乗る者のいない木馬は、寂しい。作者にとって、からみ合った声は、そんな木馬のように揺れ続けるのだという。となると、この声は決して合唱やコーラスのハーモニーを表しているのではない。混ざり合ってはいけない声までが混ざり合ってしまい、判別できない不明瞭な響きを耳にせねばならぬ苦しみ。上句でしつこいまでに繰り返される、「混在のイメージ」はそんな、耳の苦しみを伝えてくるようだ。

 

その苦しみが具体的にどんなものかは、この一首ではわからない。しかし、ぐわんぐわんと声が混じって響く様子を、木馬の揺れに例えた作者の心は、なんとなくわかる気もする。むしろ、その声を受け止めた作者の頭、そして精神が、木馬のように前後にゆすられているのかもしれない。まるで眩暈のようだ。さて、本歌集を通読すれば、あるテーマに貫かれた一冊であることがわかる。〈難聴〉をかくも大きな主題として挑んだ歌集は、誠に稀有ではないか。

 

  切り取った幼児の耳をモノクロのアルバムに貼りつけるバイトあり

  ハリウッドで故意に落としたわが耳に銀幕で会える明日はいつ来る?

  太陽系の果てに飛びそうな耳巨き赤子が眠るレノン忌の夜

  補聴器のつまみ取れそうな日曜日 ナイフを捨てて母艦に還る

  箱庭のわがマネキンの両耳は手書きだ 指でこすれば消える

 

ロック調の激しさや、鋭い攻撃性を露わにしつつも、その裏に流れる悲しみや孤独感、他者の希求が切ない。幼児期、という概念への疑いも色濃い。それが、作者が後記に書く「幼児の頃に病気で聴力を七割失い」という事実と関係あるかどうか。しかし、「耳」という器官、および、「聴くこと」への徹底した問いかけが、文字言語の形で為される現場を見つめるうちに、音声と文字の関係をもう一度考え直したくなってくるのだ。

 

 

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