澤村 斉美


セケン帝なる皇帝がいるらしいあの日の丸の赤の奥には

松木秀『RERA』(2010年)

実体は分からないけれどとにかく力をもった「誰か」がつくりあげ、世間に、人々の無意識にじわじわと流通させる、いわば「決められた世界」。それに対する憤怒を、短歌定型によってどうにかこうにか暴発を抑えながら、示す。松木秀が短歌で行っているのはおそらくそういうことだ。「誰か」とは、国であったり、企業であったり、知らず知らずのうちに情報を流しこんでくるメディアであったりする。「伝統」や「世間の常識」や「読むべき空気」といったものも憤怒の対象に入る。

「止まったままの時計」がまたも惨劇を忘れぬためのアイテムとなる

下流なるわたくしなればブックオフで『下流社会』を百円で買う

「止まったままの時計」は、原爆に関する報道において、言葉あるいは写真という形で必ずといっていいほど用いられる。あるいは火災や地震の惨劇を伝えるのにも雄弁で格好な素材として用いられる。その紋切り型っぷりを暴くのが1首目である。2首目は、流行語にもなったが「下流社会」を論じる本を、その論が規定する「下流」であるわたくしが、まさに「下流」的な方法で手に入れる、という下流のスパイラルを皮肉をもって描く。いずれもメディア批判を鋭く行っている歌だ。しかし、私が疑問に思うのは、メディアの作りだす言葉にこだわり続ける限り、メディアにとらわれざるを得ない、ということだ。批判しようとすればその対象に囚われ、閉塞に陥る。その閉塞感を表すことそのものが作者の意図なのかもしれないが。

掲出歌のように、身もふたもなく「駄洒落である」ことの方を、私はむしろ好む。説明するのも野暮だが、日本の「世間」の深層にあって、生活も人間関係も、ひょっとしたら国の形のあれこれも支配しているかもしれない「世間体」を「セケン帝」という皇帝になぞらえる。「セケン帝」の権力のもとにあるニホンに生きることのやりきれなさを直観しながらも、それを声高には言わない。伝聞に基づく推定の「らしい」を用いる。「らしい」を使うことで、まるで人々のひそひそ話であるかのような印象を与える。が、ひそひそ話のなかでこそぽろっと真実が語られることもあるため、この歌の直観は鋭く伝わってくる。所詮「駄洒落」なので、しょうもないなあという笑いにくるまれはするが、けっこうこわいのである。しかし、ばかばかしさがしっかりとあるところがいい。閉塞に対する冷ややかな突きぬけ感は、こういうところに生まれるのだろう。

土屋文明の破調のごとく本棚よりあふれたる本を丁寧に積む

赤ちゃんの泣き声のする葬式にふしぎふしぎな安らぎのあり

触れたなら死ぬような線が数メートル頭上にありてその下をゆく

「新」のつく野菜たくさん刻む母「指がうれしいのよ」と言いたり

ぬばたまの、と書きかけ止める たらちねの母はいつしか六十歳(ろくじゅう)になる

閉塞感のなかの生とはどういうものだろう。出来あいの言葉にのまれていないこれらの歌に、手づかみでかつ温かいものを私は感じる。2首目の「赤ちゃんの泣き声のする葬式」を、作者は肯定している。参列者が赤ちゃんを連れており、葬式の進行にとってはその泣き声は具合がよくないのかもしれない。が、なにもわからずに本能のままに泣く赤ちゃんの存在は、異質でありながら、その場を生と死を包容する場に変えている。「ふしぎふしぎな」としかいいようのない作者の感興が分かる気がするのだ。3首目は、電線のことだろう。メディアの言葉に拠るよりも、日常生活の細部にある危うさをごく身近な言葉で捉えたこの歌の方が読者の心に、あるいは社会に鋭く刺さるように思う。4首目は「新じゃが」や「新たまねぎ」などに喜ぶ母の姿だ。「新」という言葉に他愛なく喜ぶ母を冷静に、やや批判的に見ようとしているのか。しかし「指がうれしいのよ」と言う母の姿は圧倒的である。誰がどういう思惑で売ろうとしたものだとか関係ない、「新」が紋切り型でもそれがなんだっていうのか。野菜を刻むうれしさを体が感じている、それでいいではないか、と思わせる母の姿である。5首目は、「母」につく枕詞として思わず、黒、夜などにつく枕詞「ぬばたまの」と思いついてしまい、「たらちねの」と正しくつけなおす。正しくは「たらちねの」だが、その正しさと「ぬばたまの」を思った本音との間に、心の揺らぎがある。