こわいのよ われに似る子が突然に空の奥処を指さすことも

江戸雪『椿夜』

 

幼子が突然に天を見つめる。何を見ているのか、大人にはわからない。うちの娘(生後五か月)もしょっちゅう、天井をじっと見つめたり、部屋のある一点へと執拗に手を伸ばそうとして、「何が見えてるのかなあ」と抱きながら思うことは毎日。掲出歌の「子」は何歳くらいなのだろうか? 別に乳児でもいいし、足で立てる頃の年齢でもいいだろう。だが、「われに似る子」と書くくらいだから、ちょっとは年齢が進んでいるかもしれない。

 

子どもの一挙手一投足は、親にとってはこの上なく愛らしい。何をやっても、この子の可愛らしさは異常!! と、目尻を下げてしまうものだが、それでもやはり子は人間であり、人間であれば不条理を抱えている。その子が自分に似ているとなれば、その不条理さは増すだろう。それを作者は「こわいのよ」とストレートに告白する。この怖さは、作者と「子」が親子だから生まれる。他人の子であれば、怖さなど感じまい。「われに似る子」、つまり、己の血を分けた、己の分身。。。。まだ確固たる一人の人間としての自我を存分に発揮する前であれば、「子」の存在は親との連続体であろう。その自らの離れ小島が、唐突に天の奥を指さす。

 

それは普段、「空の奥処を指さす」ことをせずに生きている己の欲望を、離れ小島の「子」が難なく成し遂げてしまうことからくるおそれかもしれない。天に憧れるものは多いだろうが、しかし、私たちは地に生きねばならない。地に這いつくばる悲しみを忘れるためには、まず天を忘れねばならない。しかし「子」は、なんのためらいもなく、天を指さす。

 

  月にむかい汝を負えば背中よりふたたびわれへ入りくるような

 

掲出歌が、親と子のつながりを負の視点から浮かび上がらせているならば、上の一首はどちらかと言えば、正の視点からだろう。子は何のはらかいも、ためらいもなく、親に全身で笑いかけ、その命をゆだねてくる。それは最高の愛情でもあるし、一つの命を受け入れることの恐怖でもあるかもしれない。

更新が大変遅くなり、申し訳ありませんでした(黒瀬)
 

 

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