今年またわが門前の若ざくらひらくがあわれ天つひかりに

石田比呂志『九州の傘』(1989年)

今日は更新が大きく遅れてしまい、申し訳ありません。書けなかったというのが正直なところで、なぜかといえば、玉城徹の文章を読んでしまったからだ。現代短歌文庫『石田比呂志歌集』は、第一歌集『無用の歌』全篇と、『怨歌集』『蟬聲集』『琅玕』『長酣集』『鶏肋』『滴滴』『九州の傘』の自撰集を収録する。解説として玉城徹、岡井隆、福島泰樹の文章を収める。そのうちの玉城徹の『九州の傘』評は、冒頭にこの掲出歌を挙げ、この歌を本当に気に入っている様子で語り始める。この歌の評に当たる部分を引用しよう。

 (以下、引用)

 実に良いではないか。(中略)わたしは、何となく齋藤別当実盛の心を思い浮かべていた。何故かと聞かれて説明がつくわけのものでもない。肝要な点は、この歌の調べにあるのだ。何だか琵琶の音でも聞えて来そうな感じがされる。それでいて、この一首、どうしても笑い出さずにはいられないところがある。「わが門前の」が殊に笑わせる。石田の家だって門ぐらいはあるだろうが、「わが門前の」なんてよくも言ったものだ。その上に「若ざくら」と来るんだから、おかしくておかしくて、しようがない。一種狂したところがあるのだ。それを味わうことは、若い読者には無理かも知れないと思われる。

(以上)

 

わが家の門前のさくらが咲いた、という簡潔な歌である。「若ざくら」だから、まだそれほどどっしりとは育っていない桜の木が、軽やかに初々しく花をひらかせるのだろう。白い花が光をうけている様子も目に浮かぶ。作者が親しみ、可愛く思っている木であり、花であることが伝わってくる。調べは、定型に素直に従っている気持ちよさがある。また、ア音が多くて、明るい調べだ。ここで分からないのは、玉城徹が「『わが門前の』が殊に笑わせる」といっていることだ。「一種狂したところがある」と説明されて、なんとなくわかるような気になりかけたが、私にわかるのは陽性の心と調べ、というところまでである。「若い読者には無理かも知れない」と玉城徹が書いているとおりのことが自分の身に起こり、ちょっとのまれてしまった。

 

 まれまれに栗の実落つる林ゆく行けば音してまた一つ落つ

 

同じ歌集から。調べの良さでいえばこの歌も魅力的だ。林を散策しているリズムである。カサ、コソと音をたてて、たまに栗の実が落ちる。行けばまたどこかで音がする。簡潔さと、特に「行けば」以降のリズムの良さが心に響く。いい歌を見つけた、と喜んでいたら、玉城徹もこの歌を選んでいた。

 

  わが影の頭の部分ひとが踏み踏ませておりぬ心和ぐまで

  さながらに人生の如き感じにて靴の裏見ゆ電車におれば

  妻とわれと勤めに出でてゆきし後夕日は遊びておらん孤独に

  夕映の街をゆきつつあるところひもじく吾の影折れ曲る

  花枇杷のこぼるる坂を上り来る君の背後(そびら)の海はひらたし

  職持たぬこの身しんじつ用なくて昼の沢庵を噛み切りており

  わが坐る位置より窓に見えながら引締りたる煙突の胴

  一本の抜身の如く雑踏に分け入りしわれ帰り来たらず

 

いずれも第一歌集『無用の歌』(1965年)から。いま、心にしみてくるのはこういう歌である。人一人分の生を、一人分相応の力で、一日一日生きてゆく。そんな感じがする。『無用の歌』は石田比呂志35歳の時に刊行された。私はいま32歳である。妙に親近感がわく。

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