鈴木英子『油月』
人は《規範》に外れたものを見ると、見えないふりをする。《規範》を誰が定めたのかとは思わず。おそらく作者が毎朝乗る通勤列車で乗り合わせる子がいるのだろう。「この子」が電車の中で自慰を行う。「この子」にとってそれが自然なことなのか、《規範》に背くことに何らかの喜びがあるのか、それとも、まったく意識が無いのかは、解らない。普通なら人はこういう場面を不可視化するだろう。しかし鈴木は眼をそらさない。そして、「この子悲しや」と詠う。
この初句、二句の歌謡調が、作者の悲痛さを歌に刻印している。それは肯定でも否定でも嫌悪でも同情でもでもない。「この子」という存在が、そのままの存在として、この世界に存在する。その端的な事実を事実として受け止めること、そして、受け止めること自体に何らかの力が必要であることが、「悲しや」という情を呼ぶ。「朝なさな」という万葉調の表現にも注目したい。「悲しや」という情を受け止めるものとして、この文語表現はある。
写真付き身分証明ぶらさげて過ぎ行く電車に礼(いや)しておりぬ
ある時は観光案内開き持ち入浴写真に昂ぶりている
たった三駅の間の行為「おります」と明るき声挙げ地上を目指す
まといつき母に払われいたる彼 こんな場面をいくつ経てきし
端的にいえば、「精神遅滞」の少年なのだろう。その少年の存在をそのまま受け止め、それを一つの現代の風景として描くことは、勇気がいることだろう(勇気がいること自体、悲しいことかもしれない)。一歩間違えればそれは露悪的な認識にも、自己満足的な表現にも陥る。しかし鈴木は、そんな《規範》のある現代だからこそ、歌をもって、少年の存在を受け止めた。電車に礼をする少年の姿には、何の疑いもない感情がある。観光案内のグラビアを眺める少年には、生命としての直截な身体がある。「おります」と声を挙げる少年の姿からは、この少年が見ようとしている世界の在り方がうかがえる。そんな少年が家族と共にいる光景に、そこに至る遥かな家族の時間を思う。そして、「この子悲しや悲しやこの子」と詠われるとき、鈴木と少年は、互いに等価な人間として、この世界に隣り合って立っている。そこにまた、歌がこの世に存在する理由もあるのかもしれない。