飯沼鮎子『ひかりの椅子』(2011年)
「はは」の姿が印象的な歌集だ。母が亡くなったことを歌う一連があるのだが、歌集全体の編集は必ずしも時系列に従うのではないようで、そこここに母の姿が現れる。
鮮紅のローズヒップティこくこくと瞑りて飲みぬ鶴のごとしも
あゆこさんあゆこさんたら、隠(こも)り沼(ぬ)に沈みしわれは引き上げられつ
1首目は、前後の歌から母がローズヒップティを飲んでいるところだとわかる。「鶴のごとしも」と喩えられているが、目をつむって「こくこくと」飲む姿は、歳月を重ねた人間というよりは、別の、静かな生き物を思わせて不思議だ。2首目は、「あゆこさんあゆこさんたら」と作者を呼ぶ母の声にわれにかえった、ということだろう。母の姿や声が、現実と記憶の間を漂っている。『ひかりの椅子』が物語る母は、ステレオタイプな老いの姿ではなく、時に動物的であったり、幻想的であったりと、人間の枠を少しはみ出している。
体臭をもたざるははがひと月を風呂に入らず陽を浴びてをり
矛盾するかもしれないが、人間の枠をはみ出しながら、どうしようもなく人間的でもある。この歌などを読むとそう思う。
「はは」への思いを表向きに語ることはほとんどない。が、掲出歌にあふれる温かさとさびしさで十分である。生前、「はは」は茗荷を自家栽培していたのだろうか。土に顔を出す茗荷をしゃがんでさがす「はは」がいる。そんな気がする朝だという。「はは」、それから「父」の老いを歌う歌をさらに3首挙げておこう。
子が誰もははと暮らさぬ家なれば桜大樹は切り倒されぬ
先へ先へ足が進みて止まらない父を受けとむ電信柱が
野牡丹はひぐれのあめに撓みおり零れ落ちるよ父母(ちちはは)の時間