さりながら死ぬのはいつも他人なり夢野久作荻野久作

佐々木六戈『佐々木六戈歌集成』

現代芸術に多大な影響を与えたマルセル・デュシャン。その墓碑には”D’ailleurs,c’est toujours les autres qui meurent.”とある。訳せば「さりながら、死ぬのはいつも他人なり」(瀧口修造の訳だと聞いたことがあるが、詳しくは知らない)。死を感知するものはすべて生者、死者自身にとって死は関知の外。芸術はおろか「表現」行為そのものの概念を疑い続けたデュシャンにふさわしい碑文かもしれない。そんな文章を短歌に「本歌取り」する。そして下句は人名の並列。歌の作者本人の言葉が無いじゃないか、と思う読者もいるかも知れない。しかし、そう思った者はすでに、作者の術中に嵌っている。この何とも言えない矛盾には、そもそも〈主体〉とは何かを問う精神があるやもしれない。さりながら詠むのはいつも他人なり?

夢野久作は推理作家(と一言で纏めていいのか)。代表作は何と言っても『ドクラ・マグラ』。荻野久作はオギノ式避妊法で知られる産婦人科医。「久作」という名を共にするこの二人は、他にも奇妙な縁で結ばれている。夢野はその狂気あふれる長編に「胎児の夢」を重ね、荻野は胎児を胎内に招かない技を編もうとした。未生の胎児を司る久作と、狂気の胎児を司る久作。そんな久作二人が立ち並ぶ背後から、「さりながら死ぬのはいつも他人なり」と声が聞こえる。そう、私たち人間はかつて、幸運にも胎児となり、胎児であることを脱し、今、この世にある。私たちの生の背後には、この世ならざる無数の胎児が笑う。〈私〉は、胎児か?

  私とは他人(ひと)の柩に外ならず或いはわれが死してよむうた

  昭和史を花のごとくにおもふとき衰へはいつも花の奥から

  人の名のアポカリプスを綴らむか鼠骨・石鼎・蛇笏・迢空

いずれも表現を削りに削り込んでいながら、なんとも空恐ろしい。人の死を見つめ続ける私は、すなわち死者の記憶を納める柩であり、死後に読まれる歌の作者に過ぎない。そして、花のように華麗な時代こそが滅びを内包するという意識。佐々木の歌には明るい滅びへの愉悦が、どことなく香る気もする。詩歌史をたどれば、そこに置かれた人名がまるで黙示録のように禍々しい。そのアポカリプスの最終末に、「六戈」の文字あり、という意識は、まぎれもない。

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