澤村 斉美


林床のどんぐりの実のそれぞれに父母ありしと思う初冬

渡辺松男『〈空き部屋〉』(2007年)

初冬の林を歩くと、どんぐりの実が落ちている。ぽつぽつと、一つずつ地面に落ちているどんぐりだが、それぞれに父と母があったのだなあと思った、という。人間が言うところの、人間関係としての「父母」というより、命の素という意味での「父母」なのだろう。どんぐりの実と、それを成した「父母」に郷愁を感じているように思われる一首だ。

 

  たいせつな文持ちつづけ ここはポストの中なのか外なのか雨ふる

 

一冊を読んでいると、作者は現実世界にありながら、ときどき途方に暮れた迷子になる。例えばこの歌だ。誰かからもらった大切な手紙をずっと持っている。手紙を持ち続けている、ということの背景にはなにか巨大な喪失感がある。失ったものと「私」とを、手紙がつないでいるのだが、下句では、喪失と現実の間で「私」は不意に自分の居場所が分からなくなっているようだ。手紙と心が寄り添うあまりに、心の方が手紙に吸い取られている。手紙とともにポストの中にいるような感覚、というのには驚かされるが、しかし、これほどかなしい表現もなかなかない。むきだしの心を雨が打っているように思えるのである。

 

この世の迷子になることの裏返しとして、大くて安心な世界に「包まれたい」という願いが歌集には垣間見える。掲出歌もそのうちの一首だ。次の歌もそうである。

 

  祖父の持つ馬穴のなかに乗っていた小さなわたしトマト畑へ

 

この歌に満ちる幸福感はいいようがない。畑へいく祖父が手にバケツをさげている。そのバケツに入るほど小さかった「私」は、バケツに揺られて祖父とともにトマト畑へ行く。バケツに入るという「小ささ」が重要だ。「私」は小さく世界に収まり、祖父という世界に守られている。もう戻りはしないその世界を、なつかしむ。父や母、祖父、さらには自分のいのちがやってきた元のところ、つまりヒトも鳥も虫も樹木も天象も大地も区別のない、「いのち」のにぎわい騒ぐ場所へと作者の思索はめぐる。本当は、そういう場所の、小さな「いのち」の一つとして包まれていたい、というのが作者の望みであるように読める。だが、その願いのかなえられないことも知っていて、この場所で、この不安な世界で「耐える」と作者はいう。「耐える」こともまた歌われている。

 

  巨大な雲の蝶を浮かべて浅間山しずかなり耐え切れる寂しさ