宇都宮敦「ハロー・グッバイ・ハロー・ハロー」(『短歌ヴァーサス』10号)
真夜中にバドミントンをする、というのは、どういうシチュエーションだろう。何かの合宿かもしれないし、飲んだ後で興にのったのかもしれない。ともかく、人生の困難を噛みしめる前の無邪気な若さが弾けているように思う。そんな真夜中のバドミントンが、続かない。シャトルの打ち合いが数回で終わってしまう。もちろん真夜中だ、暗い所為もあるだろう。しかし作者は、暗さの所為とは言わない。では何の所為だろう。
「夜が暗いせいではないね」ではなく、「月が」と改めて断っている点が、妙に切ない。ほんのわずかながらも月光が降り注いではいるのだ。だが、明るくはない。やや薄まった闇、と言う方が正しいだろう。その中をしゅーん、しゅーんと飛び、三、四回で地に落ちるシャトル。落としてはまた打ち上げ、落としてはまた打ち上げる。それは、かすかな光を求めつつも巧く続けることのできない、青年の心のやり取りに似ている。となると、バドミントンを打ち合うのは恋人同士のように思えるが、どうだろう。真夜中のバドミントンが続かない理由も、そんな二人の関係に微妙に重なりゆくようにも感じる。
しかし、作者がこの歌に込めたのは、そんなありがちな、恋人同士の感情のアナロジーではあるまい。やはり、「月が暗いせいではないね」の句を、無理やり文の真ん中にねじ込んだ、奇妙な歌の構造が気になる。ここが歌の核だ。つまり、この歌が出してくるメッセージは、〈バドミントンが続かないのはなぜだろう〉ではなくて、〈とにかく、月のせいじゃないよ〉なんじゃないか。ぼんやりとした最低限の明かりを浴びる私たちの生。何かがいつもうまくいかないけれど、それは明かりの弱さのせいではない。僕たちの生はその明かりでかろうじて世界を見る。その弱い月光を頼りに、今夜を生きなくてはいけない。
“Re:林家ペーがいた”って件名のみじかいメールが告げるお別れ
オーロラの下うごけない砕氷船 とりあえず とりあえず踊っとく?
のばしかけの髪がちくちくするけれどアフロはでかいほうがいいから
すっぱだかにしたり まっぱだかにしたり せっくすくすくすくすだまわれる
牛乳が逆からあいていて笑う ふつうの女のコをふつうに好きだ
何気ない生が、面白くって、みすぼらしくって、切ないと思う。「ふつう」に生きることしかできないくせに、私たちは言葉を扱う時に、それをつい忘れがちになる。どうしようもない、希望も未来もない、「ふつう」。そのどうしようもなさを言葉にした宇都宮の歌を読むとき、「でも、まあ、なんとかやってこうよ」という気分になるのは、僕だけではあるまい。