澤村 斉美


袈裟掛けに妻を斬りたる机竜之助の無頼たのしむ風邪の布団に

奥田亡羊『亡羊』(2007年)

『大菩薩峠』の主人公、机竜之助は妻のお浜を斬殺した。私はあらすじを知るのみだが、幕末を舞台に、旅をつづけ、人殺しを重ねる机竜之助という人物には、しんと背筋の冷える思いがする。掲出歌は、そんな机竜之助に心を寄せる一首である。風邪をひいて一人布団に休んでいるところ、そのつれづれに、『大菩薩峠』を読んだか、あるいは映画を見るかしているのだろう。「袈裟掛けに」という簡潔で鮮やかな描写からすると、映像を見ているのかもしれない、となんとなく思う。見ているであろう作者の快感も感じられる。

 

机竜之助を「たのしむ」ことと直接関わりがあるわけではないのだが、『亡羊』のあとがきの一節が印象にのこる。西行の

  心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮

を引いて、作者はこう述べる。「『心なき身』を、喜怒哀楽を超越した出家者と考える説もあるようだが、つまらない解釈だと思う。『心なき』は『心なき』のままでいい。三十代の半ばを過ぎて、初めてこの歌の冷えに触れる思いがした」。「心なし」は、辞書的には「思慮分別がないこと。また、その人。不注意者」と説明される。また、国語の授業でこの歌を習った際には、「心なき身」を、「風流を解さない者」「風流とは無縁の出家者」とする解釈を聞いた。こちらの読みの方が一般に広く知られているのかもしれない。が、奥田亡羊は「『心なき』は『心なき』のままでいい」と短く断定する。「心なき」を、本当に心がない状態、「虚無」として解釈しているのだろう。西行の歌に見ている「虚無」と、机竜之助に見ている無頼、もっといえば旅と人殺しを続ける「虚無」は、奥田亡羊の中では通じるものがあるのではないか。

 

  自転車を燃やせば秋の青空にぱーんぱーんと音がするなり

  はちみつの中をのんびり上りゆく気泡ありたり微かなる地震(ない)

  ゆく秋の日かげに縮み日だまりに伸びてのんびりくる中央線

  花までは十日ほどかと見上ぐれば油のごとき雨の降り来る

 

これらは、私の好きな風景の歌である。1首目は、秋の澄んだ青空のもとで自転車を燃やし、タイヤの爆ぜる音か、強い音が響く。「ぱーんぱーん」という高くてはっきりとした音が、秋の空気感も伝える。2首目ははちみつの中の気泡を捉えて鮮やかだ。地震のせいでのぼる気泡なのかどうかは分からない。が、地震と、はちみつの気泡の「のんびり」とした動きとのずれが斬新だ。3首目は、中央線の電車が駅に入ってくるところを、ホームか陸橋の上からか見ているのだろう。遠くからやってくる電車が、日かげでは縮み、日だまりでは伸びるような気がするというのだ。見え方の妙である。4首目は、桜の花を待つ心だ。「花までは十日ほどか」と計る心に、雨が降りかかる。風流にはもっていかないで、「油のごとき」とずらすところが現代らしい。いずれも工夫のある叙景なのだが、さきに述べた「虚無」を背景とすると、また違った見え方がしてこないか。感じない心、からっぽの心にこそ入ってくる風景が、こうした4首になっているように思うのである。

 
  今日こそは言わねばならぬ一行のような電車が駅を出てゆく

  かかかんと指で茶筒を鳴らしおり泣きたい俺はどこにいるのか

  長き貨車だらんだらんと出で来たるトンネルのごと我が哭きおり

 

これら3首のような歌を読むと、生真面目であると思う。「生真面目」と「虚無」の共存するところを面白く読んだ一冊だ。