黒瀬 珂瀾


しきたへのテンピュール枕の窪みほど凹んで帰れ(殺さず、死なず)

田中槐『サンボリ酢ム』

テンピュール枕は、眠り易いのだろうか。使ったことが無いのでよくわからない。思うに日本人は、「NASAが開発」という宣伝文句に弱い。低反発素材ということで、重みを受けると、その痕跡がしばらく残ったりする。その窪みを、「落ち込む」の意味のいわゆる若者言葉「へこむ」につなげたという面白い歌だ。初句の「しきたへ」は「枕」にかかる枕ことばで、頭の下に敷かれていたテンピュールの窪みのリアリティをさらに増している。こうした抽象的な修辞と、物事の実感が、わずかな言葉の中に交錯する点も巧みだろう。

「凹んで帰れ」という。落ち込んで帰ってこい、という。どこからか。結句に「(殺さず、死なず)」というパーレンに囲まれた呟きが添えられている。心中の本音を印象付けるためのテクニックだろう。「殺し、死ぬ」かもしれない場所から、「殺さず、死なず」帰ってこい。となると、呼び掛けた相手が赴く場所は、〈戦場〉だ。相手は若者だろう。戦場での目的は殺し、死ぬことだ。殺さず、死なず帰ってくることは、戦場の目的を否定し、己の役割を否定することかもしれない。それが若者の「へこむ」要因なのだろうか。それとも、戦場の悲惨さを見てしまい、へこむのだろうか。

とはいえ、「テンピュール枕の窪み」なんて、実にささやかなものだ。「ほど」という言葉は「この程度」という意味だが、「ほんの少し」のニュアンスも含んだ現代歌語になって久しい。戦場の現実とはあまりにも格差がある。しかしそのギャップこそが作者の本音かもしれない。例え戦場で深く苦しんでも、暫くは残るがすぐに無くなる低反発枕の窪みのように、なんとしてでも日常に戻りなさい。そして、安らかな眠りを再び得なさい、と。現実を無視している、という意見もありうるが、あえて無視することで表現できる〈慈愛〉もある。さらに、現実を抽象化することで、この〈戦場〉はすべての世界、社会、人生のあらゆる場面へと敷衍されてゆく。

    二十年生きてゐられておめでたう戦争にゆかなくておめでたう

現実の〈作者本人の息子〉へのことほぎの歌かもしれない。しかし、その慈愛の対象は、特定の個人を超えて、あらゆる世界の〈息子たち〉へと注がれる。思えば現在、人類のうちの何人かの私たちが生きる文明社会は、例えば日本社会を考えてみてもいい、優しい戦場、かもしれない。

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